普請場所の地形

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 内海台場の普請地に選定された品川沖は、大川(隅田川)から流れ出て堆積した砂洲の末端にあたり、水深が一~三メ-トルほどの遠浅であった(図6-1-3-1)。砂洲と砂洲の間には複数の澪筋(みおすじ)(水路)が形成されていたため、弁才船(べざいせん)のような大型の木造商船はこの澪筋を抜けて鉄砲洲や佃島(現在の東京都中央区佃)方面に入ることができたが、ペリ-艦隊級の外国の蒸気船は内海台場普請地から約三キロメ-トル南方が入津地点の限界であったことが当時の海図に明らかである(「GULF OF YEDO」一八六三など)。幕府は、この天然の要害を利用して一一基の海上砲台普請の計画を立て(のちに一二基計画に変更)、半数に当たる六基を竣工させた。工期は、嘉永六年(一八五三)八月末から翌安政元年一二月一五日に至るわずか約一年四か月であった。工期は短期間であったが、構造上堅牢な台場が品川沖に完成したのである。

図6-1-3-1 「明治十一年実測東京全図」(部分)
品川区立品川歴史館所蔵 一部加筆