内海台場の普請は将軍直轄事業であるが、それを主導したのは海防掛である。海防掛は、老中を筆頭とするが、勘定方と目付方を中心とする幕府の海防と外交の諮問機関であり、阿部正弘政権の意思決定に極めて重要な役割を担った(後藤 二〇一五)。その海防掛を主軸とした専門組織の一つが「内海御台場御普請并大筒鋳立御用掛」(以下、台場掛)であり、若年寄支配下の目付方、勘定奉行およびその支配下の勘定方と普請方、代官、そして勘定吟味役とその支配下の勘定吟味方で組織された。嘉永六年(一八五三)八月二八日に江戸城で正式発足した台場掛は、以上の部署に所属する役人たちで占められているが、上層部はみな海防掛を兼務している。このほか、江戸町奉行所、台場普請現場を差配する作事奉行支配下の作事方大棟梁平内(へいのうち)大隅と樋橋切組方棟梁岡田次助および、それぞれの下役がこれに加わった。江戸町奉行所では、次席の町年寄が構築資材運搬船調達の触出しを行っている(「撰要永久録(せんようえいきゅうろく) 御触事六十一」* および冨川 二〇一四)。
台場掛は、発足時で七〇名の存在が確認でき、最終的に少なくとも一一〇名を超える役人たちが普請に関わったことが判明している。その役人たちは、江戸掛、場所掛、大筒鋳立掛の三部署に割り当てられた。江戸掛は江戸に常駐して普請現場と幕閣を繋ぐ役、場所掛は台場掛の本部が設置された高輪の如来寺をはじめ、東禅寺や常照寺といった周辺寺院に宿舎に常駐して普請現場を差配する役、そして大筒鋳立掛は、内海台場設置大砲の鋳造御用に専任する役である。大筒鋳立掛は、主力を担った湯島馬場大筒鋳立場(いたてば)(現在の東京都文京区湯島)での製砲に従事したと見られる。この頃、幕府はアメリカ、ロシア、イギリスといった諸外国と交渉を始め、海防掛を主体とする応接掛を複数組織したが、同じ専門組織の中にあって台場掛にかけた人数は桁違いに多い。まさに、国家プロジェクトにふさわしい大規模な組織であった。