台場掛宿舎の位置とその選定

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 内海台場の普請について克明に記録した、幕府小人目付(こびとめつけ)高松彦三郎の「内海御台場築立御普請御用中日記」(東京都立中央図書館特別文庫室が自筆原本を所蔵。以下、『高松日記』〈冨川 二〇〇八~二〇一二〉)には、普請開始当時に台場掛の宿舎として使用された寺院として、高輪の如来寺、東禅寺、常照寺、北品川の法禅寺の四か寺が記されている。その後、掛役人の転宿、交代、増員に伴い、芝、高輪地域の智福寺(ちふくじ)、成覚寺(じょうかくじ)、長安寺、長應寺、国昌寺、松光寺(しょうこうじ)、円福寺、常光寺、法蔵寺、仏心院(ぶっしんいん)と北品川地域の本照寺の一一か寺が追加され、少なくとも計一五か寺が使用されている。宿舎に使用された寺院は、品川地域が二か寺なのに対し、芝、高輪地域が一三か寺と多い(図6-1-3-2)。これは、台場の普請現場を後方より一望できるほか、専用の乗船場を設けて艀(はしけ)を出せば、潮の流れに乗って台場まで行くことができる立地だったからであろう。実際、『高松日記』によれば、高輪の東禅寺門前海岸に乗船場が三か所(白印船場・青印船場・赤印船場)設置されている。これは、第一、第二、第三台場を「一番白印御場所」・「二番青印御場所」・「三番赤印御場所」とし、それぞれに対応する乗船場を設けたためである(冨川 二〇〇八)。この乗船場を利用したのは、日々普請現場に出役し、現場を監督する台場掛の役人たちである。普請開始当初の現場監督者は、目付の下役である徒目付(かちめつけ)一人と小人目付二人の計三人が一組となるのが基本であった。

図6-1-3-2 台場掛宿舎位置関係図
冨川武史「高松彦三郎筆『内海御台場築立御普請御用中日記』(5)」港区立港郷土資料館『研究紀要』14(港区立港郷土資料館、2012)掲載図に修正・加筆のうえ、転載


 
 ここで、台場掛の寺院宿舎選定の経緯について、品川の東海寺文書「公用記録附山中事故」から見ていきたい。この史料によれば、寺社奉行安藤信正は、嘉永六年(一八五三)八月一九日、高輪町と品川宿の寺院に対し、台場掛のうち場所掛の役人が勤務するための宿舎提供を打診し、宿町役人から話が来しだい受諾するよう通達したことが記されている。その後、台場掛のうち場所掛は、如来寺に「元小屋(もとごや)」(御普請元小屋)を設置して本部と定め、周辺の芝、高輪、品川の寺社に担当役人を分宿させた(冨川 二〇〇八~二〇一二)。如来寺は、人足御用場と構築資材の検閲所、構築資材代を含む必要経費の支払所などとして使用され、同寺を中心に普請が展開した。
 しかし、宿舎利用の打診に関する史料は東海寺文書に、また各寺院の利用実態を記した史料は『高松日記』にそれぞれ限定されており、他の寺院側の史料では発見できていない。これは、明治時代になり、如来寺、法蔵寺、長應寺が移転し、常照寺が廃寺になったことも少なからず影響しているだろう。そうした中で、普請開始当初、徒目付の永井脇太(第二台場担当)と畑藤三郎(第三台場担当)の宿舎として使用された北品川の法禅寺では、宿舎受け入れの基準があらかじめ定められていたことが、天保一四年(一八四三)一二月の東海道品川宿の記録「宿方明細書上帳 二」に明らかである。この史料によれば、品川宿では、幕府の御用や大名行列通行などの折、街道沿いの寺院に対し宿泊所としての受け入れ可否を定めていた。法禅寺の項目には、「例年御公家衆様方御参向の節、右御掛御勘定様方、御普請役様方御休泊定例相勤申候、右の外宿方ニて差支、寺院ニても不苦(くるしからざる)御休泊之御向は、其時宜ニ寄宿方ゟ(より)相頼相勤させ申候」とあり、普段から幕府役人の受け入れ体制が整っていたことがわかる(品川区編 一九七六)。これは、台場掛宿舎選定の約一〇年前の史料だが、選定基準に該当している。また、東禅寺には幕府の使節を迎える設備が整っていることから(竹村 二〇〇九、 六章二節参照)、高輪町や品川宿には、既に受け皿となる体制を備えた寺院が何か寺かあり、幕府が宿町役人を通じて連絡する度に、「先例」や受け入れ基準に沿って対応していたことがうかがえるのである。  (冨川武史)