絵巻物の冒頭に配された図6-1-4-2a「泉岳寺境内土堀之図」は、泉岳寺中門外で参道両脇にあった泉岳寺山の土取り作業を描いたものである。東海道に接する同寺の参道から出入りする土取人夫が南側の山を切り崩し土砂を運搬している。この山の南側に台場掛の本部が置かれた如来寺がある。御殿山、八ッ山、泉岳寺山の大規模な土取り作業では、土取場とそれぞれに対応する沿岸部の土出場の間を土取り人夫が往来することにより作業を円滑に遂行した。その作業には東海道を横切る必要があることから、幕府はその通行を明六時から暮六時(おおよそ六時~一八時)まで原則禁止し、品川宿本陣前から御殿山の西方をまわり、二本榎(現在の高輪一~三丁目)を経て札の辻(現在の芝五丁目)に至る区間を迂回路「仮往還道」として対応した(「撰要永久録」* など)。切り出し工事がほぼ毎日続くこの時間帯、品川宿では営業面で大きな影響を受けている。
図6-1-4-2a 「甲寅記事画巻」泉岳寺境内土堀之図(口絵12)
京都国立博物館所蔵
図6-1-4-2b 「甲寅記事画巻」高輪往還(口絵13)
京都国立博物館所蔵
この図に続いて配されているのが図6-1-4-2b「高輪往還」(口絵13)である。土出場や遠く台場を臨む構図であることから、泉岳寺山方面からの視点であろう。土取り人夫の往来によって足止めされている東海道を利用する武士や飛脚、茶店でくつろぐ者、台場を望遠鏡で覗く者などが描かれている。図の左右には「御用」の幟旗のもと、厳重に管理された杭らしき資材が保管されている。その先の土出場には、土取り人夫が海岸まで運んだ土砂を沖合いの普請現場に輸送する土船(つちぶね)が数艘着岸している。その海岸部では、埋め立て作業時間の短縮のため、明俵に土砂を詰め土俵とする作業が行われていた可能性がある。台場掛の高松彦三郎は、明俵は埋め立て後に藁が溶けた際に隙間が生じるとして、基礎の強度を問題視して上申したことから、その使用を中止していた時期があった。明俵自体は、斎藤嘉兵衛、勝田次郎、竹垣三右衛門といった幕府の各代官支配地である、世田ヶ谷領、川崎領、多摩領、東葛西領、豊島郡、埼玉郡などから調達が確認されている(*)。明俵の調達は、木材や石材と違い、地域を限定せず江戸近郊農村を対象にしたようである。幕府は、村高一〇〇石につき一〇〇俵の調達を、対象とする地域に割り当てる通達を行い、二~四日以内に如来寺への納入を義務づけた(冨川 二〇一四)。俵代と運搬費は幕府の負担で、納入時に支払われた。
そして、土砂の流出を防ぐ目的で使用された野芝(芝生)は、上部構造の土塁に張る仕上げ材であり、下総国千葉郡登戸(のぶと)村(現在の千葉県千葉市)からの購入が確認できる(冨川 二〇一二)。野芝は江戸の園芸でも重宝されており、坪単位で販売していたようである。
こうした資材の調達は、すべて台場掛の主導で行われた。江戸城築城に次ぐ幕府の大規模普請となった台場普請では、諸大名を大々的に動員せず、成熟した代官支配体制を活用し、迅速な情報伝達によって資材調達を実現した。これは、上目黒村(現在の東京都目黒区青葉台、上目黒、東山、祐天寺、五本木)、東海道品川宿・同平塚宿(現在の東京都品川区、神奈川県平塚市)、甲州道中府中宿(現在の東京都府中市)、日光道中越ヶ谷宿(現在の埼玉県越谷市)など、各代官所の手付、手代が詰めていた「御用先」を経由し、各宿町村の役人に情報を下達する従来の触(ふれ)、特に廻達時間を指定する刻付廻状(こくづけかいじょう)により成されたのであった。
そして、これらの資材を用いた土木工事は、享保期(一七一六~一七三六)以降に江戸で誕生した請負入札(うけおいいれふだ)制を採用し、請負人を決定した上で実行された。内海台場の設計から普請、警備という一連の流れを見たとき、最も地域社会に大きな負担を与えたのは普請である。わずか一年四か月で六基もの大規模台場の普請を成し得た原動力は、代官による支配体制と、それを可能にする地域社会の能力にあったのである。 (冨川武史)