図6-1-5-1 内海台場と付属陣屋位置関係図
筆者作図。品川区立品川歴史館編『品川御台場(増補改訂版)』(品川区立品川歴史館、2017)掲載図に加筆のうえ、転載。
鳥取藩は、もともと外様大名であるが、将軍家との血縁により親藩に準ずる家格「準家門」の位置にあり、この警備において司令塔の役割を担った。松代藩も元は外様であるが、譜代筆頭の彦根藩井伊家、ついで親藩の白河藩松平家と養子縁組をしたことで譜代扱いとなった。そして、内海台場南方の大森と羽田の警備には彦根藩が入った。ペリ-来航時には外様の長州藩が臨時警備していた場所である。江戸湾の警備経験に実績がある川越、会津、忍、彦根の四藩は揃って内海台場とその周辺に配置転換となったのである。一方、四藩が警備してきた相模、房総地域(現在の神奈川県、千葉県)には、長州、熊本、岡山、柳川の外様大名が配置された(六章一節コラムB参照)。そして、両者の中間に位置する本牧には、ペリ-第一次来航時(嘉永六年)には熊本藩が、第二次来航時(嘉永七年)には鳥取藩が入った。そして内海台場の警備開始後は松江藩(親藩)に交代した。こうしたなか、江戸の沿岸部に設けられた大名の江戸屋敷は、内海台場付属陣屋地への転換や屋敷内の台場設置などにより軍事的要素が強まり、その利用に変化を生じさせていくのである(品川区立品川歴史館編 二〇一七、冨川 二〇〇六・二〇一五、「高之輪御陣屋御長家仕様帳」* など)。