諸大名の警備配置

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 江戸湾の警備体制は、文化七年(一八一〇)二月の会津藩と白河藩動員時に本格的に開始され、慶応四年(一八六八)三月の新政府軍への内海台場引き渡しまで、約五八年間機能した。その担い手は諸大名である。江戸湾は将軍の膝元であるがゆえ、その担い手は当初将軍に血筋の近い親藩(家門大名)に限定されていた。幕府はその後、譜代大名を追加動員し、さらに嘉永六年(一八五三)六月のペリ-来航を機に西国の国持外様大名を加えた。元来、動員の対象外であった外様大名が配置されたことは、親藩、譜代に絞る警備体制の限界を示していたが、江戸湾内海に親藩と譜代を、その外側に外様を配する二重防備体制へ強化させたものでもあった。この体制の移行は、内海台場の普請進度に合わせて行われており、嘉永六年一一月と翌七年一一月の二度実施されている。この結果、内海台場には、川越藩(親藩、第一台場)、会津藩(同、第二台場)、忍(おし)藩(譜代、第三台場)、庄内藩(同、第五台場)、松代(まつしろ)藩(同、第六台場)、鳥取藩(準家門、御殿山下台場)の六藩が配置された(図6-1-5-1)。

図6-1-5-1 内海台場と付属陣屋位置関係図
筆者作図。品川区立品川歴史館編『品川御台場(増補改訂版)』(品川区立品川歴史館、2017)掲載図に加筆のうえ、転載。


 
 鳥取藩は、もともと外様大名であるが、将軍家との血縁により親藩に準ずる家格「準家門」の位置にあり、この警備において司令塔の役割を担った。松代藩も元は外様であるが、譜代筆頭の彦根藩井伊家、ついで親藩の白河藩松平家と養子縁組をしたことで譜代扱いとなった。そして、内海台場南方の大森と羽田の警備には彦根藩が入った。ペリ-来航時には外様の長州藩が臨時警備していた場所である。江戸湾の警備経験に実績がある川越、会津、忍、彦根の四藩は揃って内海台場とその周辺に配置転換となったのである。一方、四藩が警備してきた相模、房総地域(現在の神奈川県、千葉県)には、長州、熊本、岡山、柳川の外様大名が配置された(六章一節コラムB参照)。そして、両者の中間に位置する本牧には、ペリ-第一次来航時(嘉永六年)には熊本藩が、第二次来航時(嘉永七年)には鳥取藩が入った。そして内海台場の警備開始後は松江藩(親藩)に交代した。こうしたなか、江戸の沿岸部に設けられた大名の江戸屋敷は、内海台場付属陣屋地への転換や屋敷内の台場設置などにより軍事的要素が強まり、その利用に変化を生じさせていくのである(品川区立品川歴史館編 二〇一七、冨川 二〇〇六・二〇一五、「高之輪御陣屋御長家仕様帳」* など)。