幕府瓦解と内海台場

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 その後、内海台場の警備担当藩は、広島、姫路、福井、二本松、高崎、宇和島、小倉、松江、佐倉、白河、津山、徳島、水戸、中津、山形の一五藩に下命され、先述の六藩を加えた合計二一藩が慶応四年(一八六八)の体制終了までの一五年間を支えた。しかし、警備担当藩は、安政五年(一八五八)六月一九日の日米修好通商条約締結(六章二節参照)以降、頻繁に交替していった。内海台場警備の担当六藩が比較的長期間固定されたのは安政元年(一八五四)一二月の警備開始当初から四年半ほどに限定される。親藩、準家門、譜代、外様による家格を超えた連携を緊密に取ることができていたのは、この頃に絞られるかもしれない。
 警備担当藩の頻繁な交替の要因として挙げられるのは、諸外国との修好通商条約締結によって幕府の対外政策が「鎖国」から「開国」へと舵を切ったこと、朝幕関係の中で幕府における大坂湾防備の重要度が上昇したこと、諸大名の自領警備が本格化して海防の負担が増加したこと、安政期以降、幕府が軍艦を本格的に導入し、台場に頼る従来の体制から軍艦と台場による二重防備体制に移行しつつあったこと、攘夷派の台頭に伴う幕府要人と外国人の殺傷事件の多発によって国内情勢が変化していったこと、などが関係している。
 こうした状況のなか、内海台場では、警備担当藩合同による大砲試射演習を実習する一方で、諸外国や明治新政府と一度も砲火を交えることなくその役目を終えた。江戸無血開城から約一か月前の慶応四年(一八六八)三月のことである。幕府が避戦政策の姿勢を徹底して示し続け、地域社会との関わりのなかで普請した内海台場を実戦に使用しなかったことは評価されるべきであろう。  (冨川武史)