6-1 コラムB 長州藩の江戸湾防備と麻布下屋敷

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 嘉永六年(一八五三)六月、ペリ-浦賀来航後に幕府は江戸湾警備体制の変更と配置転換を行い、同年一一月一四日、長州藩毛利家に相州警備を命じた(安政五年〈一八五八〉六月二〇日に免。熊本藩と交替となる)(図6-1-コラムB-1、図6-1-コラムB-2)。藩主の毛利敬親(たかちか)は、永代家老(えいだいかろう)の益田親施(ちかのぶ)を責任者(総奉行)に命じ、親施は翌嘉永七年(一八五四)一月、自らの家臣(陪臣(ばいしん))たちを伴い、知行地の須佐(すさ)(現在の山口県萩市)を出立、萩を経由し江戸へ向けて出発した。

図6-1-コラムB-1 「相南三浦郡上宮田長藩陣営之図」
益田親施が相州御備場総奉行として赴いた上宮田陣屋の図
萩博物館所蔵

図6-1-コラムB-2 海防陣屋跡の碑
現在は神奈川県三浦市南下浦出張所の敷地内


 
 親施に同行した家臣の一人、股賀又助(またがまたすけ)は「道中日記并小遣諸控」という日記・小遣い帳をつけている(図6-1-コラムB-3)。これを元に彼らの足跡を追ってみよう。一行は一月六日に萩を出立し、富海(とのみ)(現在の山口県防府市)より海路で大坂まで向かい、以降陸路を取り二月二日に江戸へ到着している。海路では着船した港の界隈で、陸路では道中にて、頻繁に名所旧跡の見物を行ったり、芝居見物をしたり、名物を食したりと、必ずしも辛いだけの道中というわけではなかった。だた、大坂までの船中で空模様が悪く大風の時には、食事も摂れないほどの辛さもあったようである。
 江戸へは到着したものの、一行が警備の陣屋となる上宮田(かみみやだ)(現在の神奈川県三浦市)に出向いたのは二月二六日である。それまでの二四日間、彼らは江戸の麻布下屋敷(二章一節三項参照)に滞在していた。
 江戸へ到着した直後は、上屋敷である「桜田御本屋敷」へ伺い挨拶を済ませたあと、「麻布御屋敷」へ向かっている。翌日より、屋敷内の見学を皮切りに、「江戸見物」がスタ-トする。浅草や上野、湯島など多くの名所を訪ね、港区域では「増上寺」「神明あたご」「芝泉岳寺」などの見物をしている。小遣い帳には、二月一四日に「江戸見物小遣」として「三〇〇文」が記録されている。それ以外にも江戸絵図を購入したり、菓子をつまんだりと、江戸滞在を満喫していた様子がうかがえる。また、同じく益田家の家臣である増野勝太(ましのかつた)については、遠縁である岡崎藩士と久しぶりの面会を試みたが、たまたま屋敷に不在で叶わず、非常に残念であったという記録も残されている。

図6-1-コラムB-3 道中日記并小遣諸控

2月2日、江戸に到着し、桜田屋敷に寄ってから麻布屋敷へ。翌日より江戸見物をした様子。山口県文書館ホ-ムペ-ジには古文書講座の成果として当該資料の翻刻文が掲載されている。
「道中日記并小遣諸控」(「〔須佐益田家臣〕股賀又助御奏者改事記録」〈山口県文書館所蔵 毛利家文庫〉所収)


 
 このような三週間程度の麻布屋敷滞在の様子から、益田家の家臣たちは、相州警備を江戸に出るまたとない機会だと捉えていたと考えられる。彼らが江戸に出るチャンスがあるとすれば、仕えている益田家当主が藩主の参勤に付き添う場合などであり、さほど多くはなかったのだ。さらに驚くべきことに、この警衛同行については、急なことで財政状況も差詰まっているという理由から、特別な「勘渡(かんと)」(手当)は出なかった。帰藩後に、役目を良く勤め上げたという理由でわずか一両一分を拝領したのみである。つまり、家臣たちは、自己負担も大きかったにもかかわらず、当主に随従し江戸での時間を楽しんだあと職務につき、翌年四月に帰藩したのである。彼らはそれぞれの屋敷へ戻り、家族へどんな土産話をしたのだろうか。
 (重田麻紀)