欧米四か国の使節

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 安政五年、幕府はアメリカに引き続いてヨ-ロッパの四か国とも修好通商条約を締結する。各国の使節はいずれも港区域内の寺院を宿舎とし、これがのちに外国公館が港区域内に設置される前提となる。
 安政五年三月、オランダは修好通商条約の締結を企図して、外交代表を長崎から江戸に送った。オランダの外交代表(Kommissaris、「領事官」)は長崎出島の商館長でもあるドンケル・クルチウスである。しかし、今回の江戸参府は商館長としてではなく、近代国家の外交代表としての訪問である。そのため、幕府はクルチウスの応接のありかたを再検討し、従来商館長が定宿としていた日本橋本石町(現在の東京都中央区日本橋室町)長崎屋源右衛門方から真福寺(しんぷくじ)(愛宕一丁目)に宿泊施設を変更する。幕府は寺院こそ外交使節を宿泊させる施設としてふさわしいと考えていたのである(𠮷﨑 二〇〇五)。クルチウスは三月一〇日に江戸に到着して真福寺に入るが、これが港区域内の寺院が外交使節の滞在施設となったはじまりである(日蘭修好通商条約締結は長崎帰任後の七月一〇日)。
 イギリスも修好通商条約の締結を期して、エルギン卿を日本に送る。エルギンは清とのアロ-戦争後の交渉を主要な任務としており、その交渉後に日本に立ち寄るかたちになった。安政五年七月八日、エルギンは江戸に上陸、西応寺(さいおうじ)(芝二丁目)を滞在中の宿所とし、七月一八日、日英修好通商条約を結んだ。一方、ロシア使節プチャ-チンは七月四日に真福寺に入り、一一日に日露修好通商条約を締結した。八月二〇日に江戸に上陸したフランス使節グロ-も引き続き真福寺を宿所とし、九月三日、日仏修好通商条約を調印する。
 この年に江戸に入ったヨ-ロッパの外交使節は真福寺と西応寺という港区域内に所在する寺院をその滞在施設として使用し、外交交渉もその寺院で行われたのである。  (𠮷﨑雅規)

図6-2-1-1 幕末期外国公館関係地図