外国公館の開設

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 安政六年(一八五九)六月、修好通商条約の発効にともなって、江戸にはまずアメリカ・イギリスの公使・総領事が、八月にはフランスの総領事が赴任してくる。アメリカ公使ハリスは麻布の善福寺(ぜんぷくじ)(元麻布一丁目 図6-2-2-1)、イギリス総領事のラザフォ-ド・オ-ルコックは高輪の東禅寺(とうぜんじ)(高輪三丁目)・そしてフランス総領事デュシェ-ヌ・ド・ベルク-ルは三田済海寺(さいかいじ)(三田四丁目)と、各国の公使館、総領事館はいずれも港区域の寺院に開設された。ここではまず、外国公館開設前後の経緯を寺側の史料も用いながら検討してみよう。

図6-2-2-1 善福寺
フェリ-チェ・ベアト撮影 横浜開港資料館所蔵


 
 駐日弁理公使に昇進したハリスは安政六年五月二七日、下田で老中太田資始(すけもと)(遠江掛川藩主)に手紙を書き「永住の場所(公使館)が決まるまで、江戸に私がしばらく住むことができる家」を希望した(『幕末外国関係文書』)。
 五月二七日、善福寺は、イギリスの「旅宿」候補として幕府役人が見分を行うという知らせを受け取った。二八日、外国奉行配下の役人がやってきて善福寺を下見する。同日、イギリス人による見分が二九日に実施されると連絡があった。しかし、当日になってイギリスの下見は中止になった。イギリスは先に見分した東禅寺を公館としてふさわしいと判断し、善福寺はイギリス公館の選から漏れたのである。
 ところが六月三日、寺社奉行松平輝聴(てるとし)より呼び出しを受けた善正寺(ぜんしょうじ)(善福寺の子院 元麻布一丁目)の僧に、善福寺がアメリカ公使の「旅宿」となったことが告げられた。そして早くも翌四日、ハリスの召し使っていた中国人とともに家財道具が善福寺に運び込まれる。五日、「亜人先詰の者両三人」が善福寺にやってきて、寺は幕府役人の立会いのもと座敷を外国側に引き渡した(以上、『亜墨利加ミニストル旅宿記』「村垣淡路守公務日記」)。六日、太田資始はハリスに麻布善福寺を「仮旅館」とすることを書面で正式に通知し、八日、ハリスは江戸に上陸して善福寺に入り、ここをアメリカ公使館とした。
 以上から江戸の外国公館は、外国側の要望のもと、外国奉行と外国側の下見を経て、かなり短期間で開かれたことがわかる。