安政六年六月のある夜、赤羽根の料理茶屋増本庵にイギリス人二一人がやってきた。赤羽根はアメリカ公使館の麻布善福寺から近いこともあって、日々外国人が「遊行(ゆうこう)」していたという。店側は入店を強く断ったがイギリス人は聞き入れず、土足で二階へ上り、婦人を出すよう店に望んだ。店は要求を断るが、「前日とくと見置き候」と言って外国人たちは聞き入れない。やむをえず、店の付近に住む「事なれたる婦人一両人」を呼んで外国人の接待にあたらせた。外国人たちは「三味線を望、銘々調子も合ざるに踊りを始、興に入」ったようす。酒は「美醂酒(みりんしゅ)一盃」くらいで、日本酒は飲まず、しきりに水を求める。食べるものは桃などの果物と卵焼きばかり。当初店が心配していたような、婦人に乱暴するようなことはなく、「たわむれたる事計(ばか)り」。どの品を見ても代金を尋ね、支払いで揉めるようなこともなく、日本の金子で支払って午後一〇時過ぎに帰っていった(「聞集録」)。
一方、東禅寺に近い品川宿でもイギリス人が騒動を起こしていた。六月一四日の午後二時頃、イギリス人三人が宿内の旅籠(はたご)屋三河屋伝右衛門、宇津屋七右衛門方へ立ち入り、座敷を駆けめぐった。続いて二人の外国人が旅籠屋伊和屋徳兵衛、江戸屋長次郎方へ立ち入ったため、食売女(めしうりおんな)(飯盛女)たちは裏の物置小屋に逃げた。イギリス人はそのあとをさらに追いかけ、女たちは「恐怖」の様子を見せたという。午後九時頃にも二人の外国人が旅籠屋青柳屋寅一郎方に上がりこんだ。外国人たちは、食売旅籠屋の性格(実際には売春を行う)をよく承知している様子であり、宿の人々は「強(しい)而(て)食売女可差出(さしだすべき)旨申募(もうしつのり)候節、言語者不通宥可申様無之(はつうじずなだめもうすべきようこれなく)、当惑至極仕候」と困惑の色を隠せなかった(「異国・異人関係御用留」)。
外国人は、外国公館に駐在しただけではなく、周辺の町にも遊興に出かける。そして、江戸の人たちとの初めての「交流」は地元の人々を当惑させることもあった。
図6-2-2-2 東禅寺庭の幕府役人とイギリス人
横浜開港資料館所蔵