外国公館と地域

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 外国公館はその周辺地域から日本人を雇用する場合があった。その日本人と外国人の交流、そして地域への影響も史料から垣間見える。
 文久元年(一八六一)八月二〇日、イギリス公使オ-ルコックは老中にあてて、抗議の手紙を書いた。手紙には、公使館が雇用している日本人がイギリスの警備兵に酒を与えたという事実が記されており、オ-ルコックは「余及ひ其他の衆人の安全に関する親兵を攪乱(かくらん)に導かんとする」安全保障上の重大問題と捉えていたのである。
 そこで、幕府は事件の容疑者とされた仙次郎から事情を聴取する。仙次郎は東禅寺に隣接する下高輪村(現在の高輪三丁目)に住む造園職人で、東禅寺の植木の手入れをするために雇われていた。八月九日、仙次郎は東禅寺の裏手、二本榎の酒屋三河屋で酒を三合二〇〇文で買い求めた。徳利に入れておいたところ「マドロス」(水兵)がこれを見つけ、しきりに酒をわけてくれるように言う。仙次郎は断ったものの外国人は四〇〇文を出してさらに求めたので、やむをえず酒をあたえた。しかし、上官の外国人が水兵の酒の匂いから事情を勝手に察して公使に言いつけたという(「英国公使館附兵士ニ飲酒セシメタル本邦人罪科請求一件」)。事実は、雇いの日本人とイギリス水兵の、ささやかな交流に過ぎなかったようである。
 しかし、この「事件」を受けて一〇月二五日、幕府は「英吉利西人宿寺高輪東禅寺境内江(え)一切酒売込申間敷(まじく)、若(もし)心得違いたし相背候もの有之候ハヽ(これありそうらはば)、吟味之上急度(きっと)可申付候」(『江戸町触集成』一八-一六六四一)と、東禅寺境内へ酒を売ることを禁じる触れを発した。とくに東禅寺周辺の町々は「最寄町々は猶更之義ニ付別而(べっして)心付候様」と、特に留意するよう厳命された。
 外国公館の周辺地域の人々は、外国人と様々な関係を持つ。そして、外国人との接触・交流が、結果として地域に波紋を投げかけることもあった。  (𠮷﨑雅規)