ヒュ-スケン暗殺事件と外国御用出役

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 続いて、万延元年一二月五日に発生したヒュ-スケン暗殺事件は、欧米の外交代表団にさらなる衝撃を与え、幕府が本格的な警備体制を整備するきっかけとなる。
 この頃、プロイセンの使節オイレンブルグとその随員たちは赤羽接遇所に滞在し、幕府と条約締結の交渉を行っていた。プロイセン使節はアメリカ公使ハリスより、書記官兼通訳のオランダ人ヘンリ-・ヒュ-スケンを借り、幕府との交渉にあたる。そのため、ヒュ-スケンは麻布善福寺から赤羽接遇所まで騎乗して通っていたのである。
 一二月五日の夜、ヒュ-スケンは外国御用手附の鈴木善之丞ら三人の武士に護られ、二人の馬丁を従えて赤羽接遇所より帰途についた。午後九時頃、古川に沿った北側の道を西へ進んでいたヒュ-スケン一行は、中ノ橋付近(現在の東麻布)で潜んでいた男たちに襲われた。外国御用手附は襲撃と同時に逃走。ヒュ-スケンは善福寺に運ばれたのち、その晩のうちに死亡した。出血多量による失血死であった。犯人は近年の研究により、薩摩藩士の益満新八郎・伊牟田尚平ら五名と指摘されている。彼らは庄内藩の郷士、清河八郎が主宰する「虎尾の会」のメンバ-であった(ヘスリンク 一九九六)。
 事件後、イギリスのオ-ルコック、フランスのド・ベルク-ルは江戸から横浜に退去して幕府に抗議の意を示し、警備陣の質的な改善を強く求めた。外国側の要請を受けて、幕府は新たな外国人警備部隊を設立する。文久元年(一八六一)一月一八日、幕府は講武所(幕臣の武術教習機関)から、旗本・御家人の別なく武術にすぐれたものを抜擢し、「外国御用出役」として三〇〇名を外国方に出向(「出役」)させ、外国人の警備にあたらせることにした(「別手組雇放」。人数は史料により異同がある)。またこの頃、幕府は各寺院に散在している外国公館を一か所にまとめることを企図、外国側にその候補地として御殿山(現在の東京都品川区北品川)を提案している(𠮷﨑 二〇〇九)。
 一月二一日、外交官の安全保障に関する幕府の努力をみたオ-ルコックとド・ベルク-ルは、横浜から江戸の外国公館に帰還した。外国御用出役の成立後、従来の外国奉行支配手附は外国御用出役とともに勤務にあたっていたが、文久二年(一八六二)一〇月に支配手附は廃止され、メンバ-は外国御用出役へ「出役替」を命じられる。そして文久三年九月一三日、外国御用出役は「別手組」と改称された(以下、外国御用出役時代も含め「別手組」と表記する)。