別手組の警備

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 別手組はどのように公館や外国人の警備にあたったのだろうか。外国御用出役肝煎として東禅寺事件で活躍した天野岩次郎によれば、「私共の方ハ実は総体の護衛と申す訳で無い、個人的の護衛でありました」「私共ハ館内の護衛といふ者でハ無い、五十人といふ組合の者は外国人が出行する時に護衛する役であつた」(「天野可春君東禅寺英国公使館争闘実歴談」)と証言する。つまり、別手組は外国人が外出する際に付き添い「人」に対して警備を行ったのである。外国公館全体の警備は大名家が担当しており、警備の範囲と方法において両者には違いがあった。
 別手組は外国公館(寺院)の境内に建てられた詰所に待機しており、外国人が外出することに気づくと同行して警備を行う。しかし、ア-ネスト・サトウなどは、「表面はわれわれの身辺の保護という名目で、その実は日本の人々と自由に話をさせないために」随行したと考えていた(サトウ 一九六〇)。
 別手組の人的規模と配置体制については、文久三年(一八六三)三月の時点で、以下のような原則が定められている。
 各宿寺へミニストル在留之節者(は)            御用出役 百人詰
 同断ミニストル并(ならびに)士官等多人数在留いたし候節者見計  同断   百六七十人詰
 士官而已(のみ)在留之節者士官壱人に而(て)も           同断   弐拾五人詰
   但士官多人数に相成候得者、見計百人程相詰候事
 外国人壱人も在留無之(これなき)節者、臨時急出府等も難計(はかりがたく)候間  同断   拾人詰
 (「各国官舎事件 乾」)
 
 公使が滞在しているときには一〇〇人、随行の外交官の人数により最大一六〇人から一七〇人が外国公館の警備にあたり、公館に外国人の滞在がなくとも急な出府に備えて一〇人ほどの人数が詰めていたことがわかる。慶応元年(一八六五)五月の別手組頭取取締の上申書では「出府外国人之人員ニ応し、一宿寺百五拾人詰、弐百人詰ニ仕、是ニ交代を相加候故、百五拾人詰之宿寺者(は)三百人之人員無之候而者(ては)、警衛者行届兼候儀ニ御座候」(『続通信全覧』)としており、実質的には上記の二倍の人員を必要とした。