公使館襲撃事件と公使の横浜転居

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 外国公館の警備体制が整備されていったにもかかわらず、外国人襲撃事件は止まなかった。
 文久元年五月二八日夜、イギリス公使館東禅寺は水戸浪士によって襲撃を受けた(東禅寺事件)。公使オ-ルコックは香港からの帰途、長崎から陸路をとって江戸を目指すが、その途次京都に立ち寄ることを希望していた(実際は立ち寄らず)。このことが尊攘派志士たちの憤激を買う。オ-ルコックが東禅寺に帰着した翌日の二八日夜、有賀半弥、古川主馬之介(しゅめのすけ)ら水戸浪士一〇数名(人数は史料によって異同がある)は東禅寺を襲撃し、イギリス側は公使館書記官のオリファントと長崎領事のモリソンが負傷した。さらに翌文久二年五月二九日、東禅寺の警備にあたっていた松本藩士伊藤軍兵衛によって、同寺のイギリス兵が殺傷される事件(第二次東禅寺事件)も発生する。同年一二月一二日には、御殿山に建設中だったイギリス公使館の建物が長州藩士によって焼き討ちされてしまう。
 攘夷の高揚による江戸の治安の悪化により、イギリス公使オ-ルコック、フランス公使ド・ベルク-ルは居を江戸から横浜に移してゆく。文久元年の末ごろ、英仏公使は横浜に居住し、月に一度江戸に出て幕府の外交担当者と会見する体制をとっていたという(「日本貿易に関するリンダウ使節報告書」)。さらに、アメリカ公使館善福寺も文久三年四月七日に火事に遭い、それ以降アメリカ公使は横浜に主として住まうことになる。文久期(一八六一~一八六四)の江戸に外国人の影は薄くなりつつあったのである。  (𠮷﨑雅規)