幕府瓦解と外国公館

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 慶応三年一〇月、最後の将軍徳川慶喜は京都で政権を朝廷に返した(大政奉還)。江戸とその周辺の治安は乱れ、一一月以降、外国人をタ-ゲットにした民衆による暴行事件も江戸内外で発生する。
 慶応四年(一八六八)一月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗北。新政府は東征軍を組織して、江戸へ向けて進軍する。しかし、西郷隆盛と勝海舟の会談によって、三月一五日に予定されていた江戸総攻撃は回避された。戦争の危険が高まった江戸の外国公館から外交官は退去していたようだが、新政府が江戸を掌握し治安が安定してくるにしたがって、外国人の姿がふたたび見られるようになる。一〇月一三日、明治天皇が東京に到着した。高輪接遇所の前で見物していたア-ネスト・サトウは、「ミカドの奇妙な駕籠--鳳輦(ほうれん)--が通り過ぎるとき、静寂が群衆を包んだ」(「サトウ日記」)と記した。天皇東幸は外国人にも新政府が日本を掌握したことを示す意味合いがあった。
 江戸の政情がおおよそ安定したことから、明治元年一一月一九日(一八六九年一月一日)、東京が開市され、築地に居留地が開かれた。開市によって東京で外国貿易を行うことが可能になる。
 明治後、外国公館は宮城(皇居)の近くに移転していく。善福寺のアメリカ公使館は明治七年(一八七四)に築地居留地内に移った。イギリスは半蔵門外に恒久的な公使館を建築して、公使パ-クスは明治八年に転居する。済海寺のフランス公使館も明治一〇年に永田町に移転していった(川崎 一九八七)。幕末期港区域に集中していた外国公館は、明治に入ると区外に転出し、また東京の開市によって外国人は築地居留地に集まっていく。
 明治はじめに築地・銀座一帯が、「文明開化」の中心地として発展することはよく知られている。しかし、その前段階の幕末期、外国公館が置かれた港区域は外国人との関わりが深く、地域も様々な影響を受けていたのである。  (吉﨑雅規)