近代における土地柄の淵源

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 このような土地柄が生まれる要因は何であろうか。
 まず、近世から近代への移行においての、土地利用の転換に特徴があることが挙げられよう。区域内西側の山の手、とくに赤坂区には、比較的区画の広い大名屋敷の跡地が多く、麻布区には中規模の武家地が多かった。それらが明治二〇年代を中心に宅地に転用されていった。紀州徳川家の上屋敷だった赤坂御用地を筆頭として、皇族や華族、政官界、陸海軍、財界の有力者たちの邸宅へと広く転用された。現代にまで継続する高級住宅地の形成は、この近世から近代への土地利用の転換によるものなのである(一・二章一節一項参照)。
 さらに区域内東側の低地は、新橋が鉄道によって開港地横浜と結ばれ、東京の行政の中心地である霞が関や大手町周辺、そして商業の中心である京橋・日本橋界隈への玄関となっていた。明治初期には農業、手工業や醸造業、漁業なども見られ、明治後期から大正初期には東京市内の牛乳生産・販売の中心であったなど、今では考えられないのどかな風景が同居していた。その一方で新橋駅の開業が呼び水となって新しい商業地を形成し、農畜産業は消滅するとともに、芝浦の埋立地の拡大、東京港の整備も相まって、中小の工場地や港湾施設、芝浦の工業地帯を形成して都市化・工業化を牽引していくこととなる(一・二章四節、三章一・四節、四章五節参照)。
 それら地形や土地の来歴に加えて、東京における地理的位置も重要である。現在では東京都区部の中央部に位置する港区であるが、維新後東京府が引いた、東京市街地の境界線である「朱引」は港区域を横切っており、明治四年(一八七一)、東京に六大区を設置した大区小区制下において、たびたびその位置が引き直された(一章二節参照)。明治一一年郡区町村編制法などの三新法により東京一五区が編成され、それが明治二二年、市制・町村制により東京市発足時の行政区の範囲となった。こうして芝・麻布・赤坂の三区は東京市の南西の端に位置する区画として範囲が確立されたのである。都市部と郊外の境界線上であったことが示すように、三区の発足時には、依然として武蔵野の面影を色濃く残す、郊外の色を持つ地であった。
 これらの条件は、当時の東京の中心部に所在する官庁街や経済の中心地からも地理的に便利で、有力者たちが邸宅を構えるのに申し分の無い立地や環境を備え、さらに土地利用に自由が利くことから、発展の伸び代の多い性格を港区域に与えたということができるのではないか。
 具体的に見てみると、明治政府による新たな国家的事業、とりわけ西洋文明の導入や殖産興業政策に関連した重要施設や行政機関が、明治初期に次々に置かれていったのが港区域の土地である。殖産興業政策を推進した工部省の本庁舎は赤坂区溜池葵町に所在し、同省が担った鉄道事業に関連して芝区汐留町に鉄道局、日本初の鉄道の始点である新橋駅が置かれ、そこから芝浜一帯にかけて高輪築堤が建設され、新たな交通網整備の先駆けをなした(一章四節五項参照)。士族の勧農政策に関連する芝区三田四国町の三田育種場や、測量と天文学発展の原点となった麻布区飯倉町の海軍観象台(現在の国立天文台の前身)の設置なども、象徴的な事例であろう。
 時代が下っても、大正一四年(一九二五)にラジオ放送を開始する芝区内の東京放送局仮放送所および愛宕山の「丘辺の」東京放送局の開設や、昭和五年(一九三〇)麻布区飯倉町に新設の逓信省貯金局(のちの逓信省本庁舎)などはその流れを汲むといえる(五章一節四項参照)。
 近代化を下支えする教育や学術研究、その一つの還元の場である医療のための施設も集中する。いずれも築地で誕生し、高等教育機関へと発展していく福澤諭吉(一八三五~一九〇一)創立の慶應義塾と、ヘボン塾を原点とする明治学院は、それぞれ明治四年(一八七一)、明治二〇年に現在地に移転。慶應義塾は、大正九年(一九二〇)初の私立大学として認可を受け、とりわけ近代実業界の開拓を担う民間の実業人を多く輩出し、また自由民権運動や国会開設の潮流を巻き起こす新文化であり新メディアでもある「演説」の発祥地でもあった(一章三節四項参照)。医学教育においては、初めて国の認可を受けた私立医学専門学校を経て、大正一〇年初の私立単科医科大に昇格する東京慈恵会医科大学となる、高木兼寬による成医会講習所の開設が明治一四年(一八八一)のことであるなど、区域内には、高等教育を牽引する私立の教育機関が多く所在し、初等・中等教育においても長い歴史を有する学校や女子教育の伝統を有する学校も多かった。キリスト教教育を行う学校が多いことも、特徴であろう(一章六節三項、二章三節ほか参照)。
 公教育においても、初等教育、中等教育、幼児教育の整備の最前線であり、私立とのすみ分けや役割分担、労働現場の実情への対応としての実業教育の展開、また社会教育の広範な展開、戦時対応など、港区域の教育史は、そのまま近代教育の試行錯誤の縮図となっている(一〜三章三節、四章四節参照)。
 国家的な課題であった感染症対策などの衛生思想の普及や衛生行政の展開を牽引した初代内務省衛生局長長与専斎(一八三八~一九〇二)の主要な活動の場であった港区域は、彼と連動し世界最先端の研究機関として北里柴三郎(一八五二~一九三一)が所長を務めた伝染病研究所や、同研究所の文部省への移管騒動を経て大正三年(一九一四)に新たに発足した北里研究所も所在して、感染症研究と予防医学を主導した(一〜三章五節、四章六節参照)。
 医療機関では、明治四四年(一九一一)から芝公園地に日本赤十字社本部が置かれているほか、皇室の下賜金によって発足した慈善事業団体の直営病院、済生会芝病院(現在の済生会中央病院、初代院長北里柴三郎)、現上皇誕生を機とした昭和天皇の下賜金で発足した愛育会が開設した愛育医院などが置かれているのも、皇室に縁が深く、多様な属性を持つ住民を有する港区域の性質を反映していよう(二章五節二項参照)。
 芝区の東京湾沿岸の埋立地を中心にした工場地には、近代的な動力を利用した大規模な工場が発展し、田中製造所(芝浦製作所、東芝)、明工舎(沖電気)、池貝鉄工場、村井兄弟商会、東京電気、東京瓦斯など、多数の職工を抱える各種の民間工場が集積し、中小規模の工場とともに、日本の産業の発展を支えていた。また手工業でも、西洋人が持ち込んだ洋家具の修理に端を発する洋家具製造業なども、地域の特性をよく表している(一~三章四節二項参照)。
 食文化に着目しても、港区域は、伝統的な食文化とともに、文明開化を象徴した肉料理、西洋菓子など近代以降に普及した文化が発達した地域でもあった(二章四節一項参照)。
 幕末に多数の外国公館が立地し、鉄道開業以来、横浜と直結した国際色豊かな土地という性格もまた港区域の特徴である。それがキリスト教各派の活動拠点となってきたことにも現れ、港区域内のキリスト教史は、日本における近代キリスト教発展史であるともいえるほどの密度を有している(一章六節三項、二章六節一項参照)。さらにそのなかでも人間の理性や人道主義を強調するユニテリアンの本部惟一館が芝区三田四国町に置かれ、その人脈が労働運動へと接続、初の全国的労働組合組織へと発展する友愛会発足にもつながるのである(三章五節一項参照)。
 その一方で、徳川家の菩提寺増上寺のほか、寺社も多いことに由来して、明治初期に神道を振興する国策により大教院が設置されたり、日露戦争中にキリスト教も含めた国内諸宗教の融和演出の「大日本宗教家大会」の舞台となるなど、日本近代宗教史の縮図を見ることができる場でもある(一章六節一項、二章六節三項参照)。
 広い敷地を必要とする軍事施設も多く所在し、いずれも赤坂区内に陸軍歩兵第一連隊や近衛歩兵第三連隊、青山練兵場などが置かれ、麻布区内にも歩兵第三連隊が置かれた(一〜三章七節、四章八節参照)。本編では、歩兵第一連隊および歩兵第三連隊を、郷土連隊という視点でも概観することで、この土地の人々の歴史として描くことを意識した。