明治維新

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 明治維新は、江戸幕府から明治政府への政権の交代だけでなく、日本の本格的な近代化の幕開けをもたらした。これに伴い、近世都市であった「江戸」は近代都市としての「東京」へと生まれ変わっていく。江戸城を間近に望む港区域は、江戸時代から「朱引内」、いわゆる「都心」としての扱いを受ける地域が多く含まれていた。それゆえに、明治政府が展開する近代都市「東京」の確立を目指す政策の様々な影響を受けることになる。まずは、明治維新という大きな政治変動が港区域に及ぼした影響や、そのなかで港区域がどのように位置付けられていったのかについてみていくことにしたい。
 慶応三年(一八六七)一〇月一四日、江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜(一八三七~一九一三)によって大政奉還が行われ、幕府は朝廷に政権を返上した。しかし、全国的な統治機構を持たない朝廷はその後も幕府の機構・組織に依存せざるを得ない状況にあった。一二月九日に「王政復古の大号令」を発して、新政府首脳であった岩倉具視(ともみ)らは総裁・議定・参与の三職を新設し、幕府や徳川宗家、慶喜の影響を排した新体制の構築を試みるが、その思惑は外れて慶喜が議定として政府に参画することが内定するなど、慶喜の復権が進みつつあった。新政府内においても、平和的な政権の再編を目指して慶喜の政権参加を容認する松平春嶽(しゅんがく)や山内容堂(ようどう)などの影響力が拡大し、慶喜の排除を試みた岩倉や西郷隆盛(一八二七~一八七七)らにとっては不利な情勢となっていた。
 こうした状況を打開して慶喜の政治的復権を阻止したのは、西郷が主導した江戸における旧幕府勢力に対する挑発行為と、それに続く鳥羽・伏見の戦いであった。「薩摩御用盗」などと呼ばれ、三田の薩摩藩邸を根拠とした浪士集団が江戸市中で放火・強盗・殺人などを繰り返したため、江戸市中警備にあたっていた庄内藩や上山藩、岩槻藩の藩兵が老中稲葉正邦の命により、ついに薩摩藩邸を攻撃したのである(『港区史』近世 上 二章一節八項参照)。薩摩藩邸焼き討ちの報を受けた京坂地方の旧幕臣や会津藩士などの旧幕府方は激昂して京都への進軍を開始する。旧幕府軍は、慶応四年一月三日に京都郊外に展開していた薩長両藩兵と衝突し、鳥羽・伏見の戦いの戦端が開かれた。兵力に優る旧幕府軍ではあったが、指揮が拙劣(せつれつ)だったことや、慶喜が戦場を放棄し、首脳を引き連れて海路で大坂から江戸に脱出したことなどもあり、薩長両藩を主力とする新政府軍が勝利を収める。江戸に脱出した慶喜は浜御殿(現在の東京都中央区浜離宮庭園)に上陸すると、そのまま上野の寛永寺に入って謹慎し、新政府に対する恭順姿勢を示した。慶喜は勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗忠順(ただまさ)らの主戦派を罷免し、フランス公使レオン・ロッシュによるたびたびの抗戦の主張も退け、恭順派であった若年寄の大久保一翁や勝海舟(一八二三~一八九九)にその後を委ねた。
 新政府は一月七日に慶喜に対する追討令を発して東海・東山(とうさん)・北陸の三道から江戸攻撃のための戦力を進発させた。その後、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王(一八三五~一八九五)を東征大総督に任じ、徳川宗家に対する処置を含む大幅な裁量権を与えた。なお、実質的な作戦指導を行う下参謀には、慶喜に対する厳罰を主張していた西郷が任ぜられた。
 一方、徳川宗家の扱いをめぐっては、一三代家定の正室となった島津氏出身の天璋院(てんしょういん)や孝明天皇の妹である静寛院宮(せいかんいんのみや)(和宮)、輪王寺門跡の輪王寺宮(りんのうじのみや)(のちの北白川宮能久(きたしらかわのみやよしひさ)親王)などがそれぞれの縁故を頼って新政府側に徳川宗家の存続を願う嘆願書を送っていた。しかし、新政府側の明確な反応を得られず、慶喜は自らの恭順の意を伝えるための使者を派遣することを決意する。慶喜が使者として選んだのは、自身の護衛にあたっていた高橋泥舟(でいしゅう)であった。しかし、高橋は慶喜のそばを離れることができないとして、義弟の山岡鉄舟(てっしゅう)を推薦したため、山岡が慶喜の使者として静岡まで進出していた東征大総督府へと赴くことになる。
 山岡は西郷との面識がなかったため、勝海舟を訪ねたところ、勝は西郷への書状を山岡に託すとともに、薩摩藩邸焼き討ちの際に匿っていた薩摩藩士益満休之助(ますみつきゅうのすけ)を山岡に同行させて、西郷との交渉を依頼した。
 山岡は慶応四年三月九日に静岡の西郷を訪ね、慶喜の恭順の意を伝えるとともに、江戸城攻撃の中止や、徳川宗家の存続と慶喜の助命を嘆願した。西郷は、江戸の開城や旧幕府方の軍艦・武器の引き渡しなどを条件として、江戸城総攻撃の中止などに応ずることとした。三月一三日に江戸薩摩藩邸に入った西郷は、同日とその翌日の二日間にわたって勝らと江戸開城や徳川宗家の処置などについて会談を行い、三月一五日の江戸城総攻撃の中止を決定した。この会談が行われたのは、田町にあった薩摩藩蔵屋敷であるとされている(一章一節三項コラム参照)。
 旧幕府方における主戦派は、次々に江戸を脱走して新政府軍に対する抵抗を試みていく。江原素六(えばらそろく)の率いる撒兵隊による船橋の戦いや、大鳥圭介の率いる歩兵隊による宇都宮城の戦いなどがあったが、いずれも短期間で鎮圧されている。同年五月一五日の上野戦争で彰義隊が鎮圧されたことで、江戸近郊における主戦派の抵抗はほぼ終息するが、東北・北陸では朝敵とされた会津藩主松平容保(かたもり)の助命嘆願などから奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟が形成されて新政府に対抗する姿勢をみせ、また、榎本武揚(たけあき)率いる旧幕府軍脱走艦隊が蝦夷地を占拠するなど、戊辰戦争の戦火は東北・北陸・北海道へと拡大していく。戊辰戦争の完全な終結は、榎本が箱館(現在の北海道函館市)で降伏する明治二年(一八六九)五月まで待たねばならない。
 なお、慶喜が寛永寺から水戸に移った四月一一日に、総督府が江戸城を接収したことで江戸開城は完了した。その後、閏四月二九日に、徳川宗家の田安亀之助(のちの徳川家達(いえさと))による相続が認められ、五月二四日には静岡で七〇万石が与えられることが通達されるなど、徳川宗家の処置も進められた。徳川宗家の静岡移封にあたっては、旗本領を含めた約七三〇万石から一〇分の一への減封となることもあり、旧幕臣の大半が無禄での静岡移住となった。勝の調査によれば、江戸から静岡に移住した旧幕臣は約一万五〇〇〇名に及び、その家族などを含めると一〇万人規模の移住であったという(田村 一九九八)。