新政府の成立によって、政府機関をはじめとする首都機能が京都に移転したことや、徳川宗家が七〇万石の大名として静岡に移封されたことで、江戸の武家人口は大幅に減少した。江戸の衰退を危惧した旧幕臣の前島密(ひそか)は、慶応四年(一八六八)三月、幕臣時代に知遇を得ていたアーネスト・サトウの紹介でイギリス公使のハリー・パークスに同行して大阪に赴き、大久保利通に対して江戸への遷都を建白している。大久保は天皇を取り巻く公家や女官などの旧弊を一掃するために大阪への遷都を建白していたが、前島は大久保に対して大阪ではなく江戸への遷都を説いたのである。
前島は、大阪と比較して江戸遷都の理由を六点ほど挙げている。それは、①北海道開拓を見据えた地理的優位性、②幕府が整備した台場や横須賀造船所など大型の洋式船に対する施設の存在、③大阪と比較して広い江戸の街路、④市街地の改築に要するコストの低減、⑤江戸城や大名・旗本屋敷など皇居や政府機関に転用可能な建築物多数の存在、⑥経済的中心であり衰退の可能性が低い大阪に対して政治的中心から外れたことで衰退の危機に直面している江戸救済の必要性の六点である(川崎 一九六五)。
また、佐賀藩の大木喬任(おおきたかとう)と江藤新平(えとうしんぺい)は連名で、京都と江戸をそれぞれ東西の二京として両所を鉄道で結び、隔年で天皇が江戸と京都のそれぞれに滞在する東西両京並置案を主張したほか、木戸孝允は、京都を帝都、大阪を西京、江戸を東京とする三京鼎立(ていりつ)を主張するなど、首都の設置については様々な議論があった。
慶応四年閏四月、徳川宗家移封などの諸問題処理のために、関東大監察使として三条実美(さねとみ)が江戸に派遣された。五月に徳川宗家の静岡移封が決定されると、大木・江藤の東西両京並置についての建白書が容れられ、木戸と大木は江戸の実地調査に派遣される。東北・北陸で継続中であった戊辰戦争への対応や東国経営の重要性などから、三条は京都の岩倉具視に明治天皇(一八五二~一九一二)の江戸行幸の必要性を強く訴えた。また、江戸の調査を終えた木戸と大木は、七月七日に江戸を東京とすることが可能であることを報告した(川崎 一九六五)。
その結果、七月一七日に江戸を東京とする詔書が発せられ、明治天皇の東京行幸も決定される。明治天皇は九月二〇日(九月八日に明治に改元)に京都を発し、一〇月一三日に江戸城に入り、江戸城を東京城と改称するとともにこれを皇居に定めた。
京阪地方では東京への遷都を警戒し、反発する声が高まっていたため、孝明天皇の三年祭と皇后の立后の礼を理由として、一二月八日に明治天皇は京都へと還幸した。しかし、東京を重視する三条の強い意見などもあり、明治二年(一八六九)三月七日には再び天皇が東京に行幸した。このときには、政府中枢である太政官も東京に移されたこともあり、動揺する京阪地方の人心を鎮めるために京都に留守官を設置し、翌年三月には京都に還幸するとしていたが、結局、東北地方の安定が不十分であることや財政的理由などから京都還幸は見送られた。その後、皇后も東京に移り、京都に設置されていた中央官庁の出張所などの政府機関も廃止されるなど、首都機能は東京へと移されていった。明治四年八月二三日の留守官の廃止により、京都から東京への首都機能の移転は完了するのである。