「都心」の設定

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 江戸開城後、東征総督府は江戸幕府が設定した朱引内をさらに郭内と郭外に分け、江戸城の外濠に沿った郭内を江戸の中心街とした。ところが、慶応四年(一八六八)七月一七日に江戸を東京とする詔書が発せられ、江戸への首都機能の移転が決まったことで、中心街の拡大が進められていく。郭内は江戸城近傍から本町通りの西北までに限られていたが、新たに両国川筋から芝口新橋川筋までを郭中に指定し、郭内・郭中を中心街とするなど、その拡大が進み、明治二年(一八六九)二月一九日には「東ハ本所扇橋川筋」、「西ハ麻布赤坂四ツ谷市ヶ谷牛込」、「南ハ品川県境ヨリ高輪町裏通リ白金台町二丁目、麻布本村町通リ青山」、「北ハ小石川伝通院池ノ端上野浅草寺後ロヨリ橋場町」と、江戸幕府による朱引内に近い範囲を明治政府も朱引内として設定した(東京都編 一九六一)。この結果、港区域は再びほぼ全域が朱引内となり、いわば「都心」としての地域に指定されることになった。
 明治政府は、一〇万石以上の大名に対しては郭内で一か所、郭外で二か所、一〇万石未満の大名などに対しては郭内・郭外ともに一か所ずつの屋敷の所有を認めたほかは、基本的に屋敷を上地した。この際に、郭内は建物の取り壊しを禁じて、土地・建物の双方を上地の対象としたのに対して、郭外では、土地のみを上地し、建物は他所への移築や取り壊しなど、本人の自由に任せることとした。ところが、江戸が東京となったことで、官公庁の設置や政府官員の住居などに充てる建物が従来の郭内のみでは不足することが想定されたため、郭中、さらには朱引内の設定などを通じて「都心」の拡大を図ったのは前述のとおりである。明治二年二月一九日の政府の布告では、「朱引ノ内諸邸其外共家作取払候儀不相成候事」と、建物ごと上地する範囲も朱引内に拡大されている(東京都編 一九六一)。