武家地処分

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 すでに述べたとおり、江戸においてその面積の約六割を占めていた武家地をどのように利活用するのかということが、政府および東京府において重要な課題となっていた。郭内や朱引内(郭外)などの「都心」地域においては、武家地の土地・建物をともに政府が上地していたが、江戸を東京とするにあたって、所有を認められた武家地をめぐる問題が新たに発生する。維新後における家禄の切り下げなどによって苦しい生活を余儀なくされていた旧旗本などのなかには、自らの屋敷地を商人などに貸し出し、その賃料収入を生計の足しにしようとする者もいた。ところが、慶応四年(一八六八)七月二三日に、東京を管轄していた鎮将府(ちんしょうふ)は武家地を商人などに貸し出すことを厳禁とする布告を発した(東京都編 一九六〇)。これは、政府用地の確保を容易にするための措置と考えられるが、武家地の市街地への転用を図る民間からの動きは阻まれたといえる。
 東京への首都機能の移転が進められようとしていた明治二年(一八六九)六月、東京府は一転して「邸宅手狭ニテ差支」のある者に、「相当ノ地代」を上納させた上で土地の貸し出しを認める。これは、上地したのはよいが空き地のままとなっていた武家地の荒廃が進んでいたため、その管理を民間に委ねざるを得なかったという背景があったと考えられる(東京都編 一九六一)。
 東西二京論を唱えていた大木喬任は、明治元年一二月四日に、烏丸光徳(みつえ)に代わって東京府知事に任ぜられた。大木は広大な武家地の活用方法として農地への転換を図った。まず、明治二年三月に朱引外の武家地について開墾を命ずる。空き地となっている武家地を農地として貸し出し、地代を得て、その収入による授産事業で東京にあふれていた貧民対策を進めようとしたのである。大木は、当時における主力輸出品であった茶と生糸に着目し、武家地を茶と桑の農地に転用する「桑茶政策」を発案した。八月には政府と東京府の双方からこれを布告し、武家地の払い下げを進め、東京府内における茶と生糸の増産を図っていく。『明治初年の武家地処理問題』によれば、港区域内でも、麻布では一二万一〇六一坪、白金では四万六〇四坪、青山では一八万四三五九坪、芝では二万九一三坪など、合計して三五万坪あまりの武家地が農地に転用され、桑や茶の栽培に充てられている。ただし、大木による「桑茶政策」は定着せず、大木自身も後年に、「桑茶政策」の失敗を認めている。
 その後、明治四年に廃藩置県が行われて華族制度や中央官庁の整備が進むと、再び政府による土地の需要は高まっていく。明治二年七月に大木は府知事の職を去るが、その後も大参事や御用掛の地位にあって府政に対する影響力を有していた。明治四年に入って民部大輔(たいふ)となるなど、大木が完全に府政から離れていくと、明治四年七月に府知事となった由利公正(ゆりきみまさ)は「桑茶政策」の完全な廃止に踏み切り、銀座における煉瓦街の建設など、東京を都市として整備する方向へと政策を転換していく。