官公庁の設置と市街地の整備

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 明治五年(一八七二)に入ると、東京府は武家地に対して町名を付すことを命じた。その結果、同年九月頃には大半の武家地に町名が付され、町地との区別は消滅した。これにより、広範な武家地が市街地として再編成される道筋がつけられたといえる。なお、江戸城の近傍である港区域には多くの武家地があったため、明治五年前後の東京における町の再編では、以下の表1-1-1-1に一覧として示すように、多くの町の新設・再編が行われている。
 一方、明治四年八月に留守官を廃止し、完全に首都機能が東京に移転されたことにより、東京では官公庁の整備が進められ、政府官員の邸宅などの確保も同時に進められた。さらに、明治四年の廃藩置県に伴い華族となっていた旧諸侯が東京への居住を義務付けられたことによって、その邸宅の確保・整備も進められていく。
 表1-1-1-2は、明治一四年の東京府統計表をもとに、港区域内の政府関連施設などを整理したものである。この表1-1-1-2に示したとおり、多くの政府関連施設が港区域に設置されている。とくに皇室関係では、明治六年に失火によって皇居が焼失したため、以降、明治二一年にいわゆる明治宮殿が竣工するまでの間は赤坂御用地に明治天皇が移り、ここを仮皇居とするなど、赤坂に皇居が置かれていた。また、麻布市兵衛町(現在の六本木一丁目)の皇宮付属地とは、静寛院宮の邸宅が置かれた場所である。静寛院宮は明治維新後に京都に移ったが、明治七年に東京に戻り、以後、明治一〇年に脚気の療養のために箱根塔ノ沢に移るまでをここで過ごした。
 また、現在の港区といえば大使館などの外国公館が多く設置されている地域という印象が強い。幕末から明治五年頃までは、イギリスやフランス、アメリカ、ロシア、オーストリア=ハンガリー、ポルトガルなど、多くの国々が港区域に公使館を設置していた。しかしその後は、築地や横浜の居留地に公使館を移転する国が増え、表1-1-1-2に示す明治一四年の時点ではフランスが港区域に公使館を設置するのみとなっている。明治後半から再び港区域に各国の公使館・大使館が設置されていることから、明治前期の港区域は、一時的に外国公館が姿を消していた時期であったといえるかもしれない。(門松秀樹)
 

表1-1-1-1 明治5年(1872)前後における港区域の町名一覧

注)「現在の地名」が複数の町にわたっている場合は、区の町名順の先の町にのみ配置した。
「港区公式町名変遷表」(港区立港郷土資料館編『増補港区近代沿革図集』2006~2010年所収)をもとに作成

表1-1-1-2 明治14年(1881)における港区域の政府機関等一覧

注1)明治39年(1906)京橋区へ編入。
注2)浜離宮内にあった迎賓施設。
『東京府統計表』(1881)をもとに作成