明治以降に整備された代表的な都市施設として公園を挙げることができる。江戸時代においても、上野の寛永寺や隅田堤、王子の飛鳥山、品川の御殿山などは桜の名所として知られ、庶民の行楽地となっていたが、欧米に由来する近代的な公園の概念、すなわち都市住民の良好な住環境を確保するための緑地などの公共の施設は存在していなかったといえる。
近代的な公園の概念は、岩倉使節団による欧米視察などいくつかの経路を通じて日本に浸透したと考えられるが、その設置を初めて各府県に命じたものは、明治六年(一八七三)一月一五日の太政官布達第一六号「群衆遊観の場所に公園を設ける件」(以下、「太政官布達第一六号」)であった。
また、江戸幕府長崎養生所の教頭を務め、のちに大学東校(東京大学医学部の前身)で教鞭を執ったオランダ軍医のアントニウス・ボードウィンによる明治政府への建言も公園の設置に影響を与えたとされる。ボードウィンは、のちに陸軍軍医総監となる石黒忠悳(ただのり)から大学東校および附属病院の予定地として寛永寺境内を案内されたところ、このような由緒ある景勝地は西欧の例に倣(なら)って公園とすべきことを政府に建言し、これが容れられたという。
「太政官布達第一六号」では、東京の浅草寺や寛永寺の境内、京都の八坂神社や清水寺の境内、嵐山などを例として示し、こうした「群集遊観ノ場所」を「永ク万人偕楽ノ地」とするために、公園として指定すべきことを述べ、各府県に公園の候補地選択を命じている(「太政類典」)。
東京府は、「太政官布達第一六号」で公園の代表例として示された浅草寺と寛永寺に加え、飛鳥山、深川の富岡八幡宮、そして、芝の増上寺の五か所を公園として指定することとしたのである。