図1-1-2-1 芝公園蓮池(明治26年〈1893〉)
『東京景色写真版』国立国会図書館デジタルコレクションから転載
芝公園(図1-1-2-1)は、明治六年(一八七三)一月の「太政官布達第一六号」によって同年三月に東京府が指定した最初の公園の一つであり、一〇月に公園の境界を確定し、開園している。なお、増上寺の広大な境内の大半は、明治維新後に政府によって収公されていたため、東京府は増上寺の境内を公園として指定することができたと考えられる。
当時の東京の公園は、ボードウィンらが企図した欧米における都市の緑地としての公園とはやや趣が異なるものとなった。東京府は公園の設置にあたり、その経営をどのように行うべきか、会議所(東京商工会議所の前身)に諮問したところ、運営のための財源が捻出できないため、公園の区域を分割して、「一ハ公園トナシ、一ハ茶店割烹店等ヲ差置、多少ノ冥加金ヲ納メシメ、以テ其入費ニ充テ」るべきとの回答を得た。東京府は、公園とは「人民偕楽園」であるため、本来は民費を徴収してでも公園の経費に充てるべきだが、民費の負担が重いため、やむを得ず会議所の回答に従うこととした。なお、芝公園内において休憩場や売店などのために民間に土地を貸し出す際の賃借料は、明治七年六月に周辺の相場の半額とすることに決定された。「火焚所住居」、すなわち飲食店の場合は一か月一坪あたり一銭二厘五毛、「葭簀張水茶屋花園」、すなわち休憩所は飲食店の半額である六厘二毛五糸であった。芝公園内の貸地面積は四四六六坪で、そのうちの二六二九坪が「火焚所住居地」、一八三七坪が「葭簀張並花園地」であり、こうした賃借料などで芝公園の運営が行われたのである(東京都編 一九三二)。
芝公園は増上寺の境内にあり、増上寺の堂宇(どうう)や仏像、さらには徳川家の菩提寺だったため歴代将軍の霊廟や東照宮などが名所として観光の対象となっていた。また、明治維新後に衰退の危機にあった能楽や狂言の保護のために設置された能楽堂などの文化施設や、会員制の高級料亭として知られた紅葉館など、様々な施設があった。
一方で、増上寺の広大な境内は政府施設に転用可能な堂宇が多数存在していたことから、官公庁の付属機関の用地として接収された。このため、芝公園にはいくつかの政府機関も設置されている。例えば、海軍が水路部やお雇い外国人の宿舎を、開拓使は東京出張所や開拓使仮学校(北海道大学の前身)を設置している。