新橋から金杉橋にかけての東海道筋に次いで商工業が盛んだったのが飯倉町(現在の麻布台一丁目近辺)であった。『東京府志料』によれば、飯倉二丁目の年間生産高が五〇六一円、同三丁目が二六一六円であり、東海道筋と比較すれば年間生産高はかなり少ないといえるかもしれないが、当時の港区域では有数の商工業地域であった。
なお、明治七年刊の『東京新繁昌記』に記された明治初期の東京の様子において、飯倉町近傍の愛宕下町(現在の新橋三丁目近辺)は、「大小の侯邸並列して曽て一商戸を見ざる」地域であったが、「今皆繁華の新街と」なっており、「百貨の肆店櫛比軒を列ね侯邸の趾を見」ないと述べられている。つまり、かつての武家地が新たな市街地を形成して成長している地域が、飯倉町近辺であったということになる。