明治初期の港区域において三番目の規模の商工業地域だったのが三田近辺である。『東京府志料』によれば、三田同朋町(現在の芝五丁目近辺)の年間生産高が一七八二円、芝田町九丁目(現在の三田三丁目近辺)が一五二五円など、三田近辺の地域では、年間生産高が三〇〇〇円を超える地域はないが、東海道や三田通などの主要な街路に沿った町地が商工業の中心となっていた。なお、三田近辺の武家地は、『東京府志料』によれば、「諸藩ノ邸跡空地トナリタルアリ」という状況であり、いまだ十分な市街地の形成に至っていなかったことがわかる。