四番目の規模の商工業地域だったのは、赤坂見附から青山に至る青山通筋であった。赤坂近辺では、江戸時代より町地であった赤坂田町五丁目(現在の赤坂二丁目近辺)の年間生産高が二〇九八円、同六丁目は一七九六円であり、青山近辺では、青山北町三丁目(現在の北青山二丁目近辺)が六九〇〇円、同五丁目(現在の北青山三丁目近辺)は三七四五円であった。やはり『東京府志料』によれば、かつては武家地であったため桑茶政策によって桑茶地となっていたが、明治五年頃には「頗ル繁盛ニ趨キ已ニ南町北町四丁目五丁目ノ如キニ新ニ市店ヲ開キ市街ト」なりつつあるなど、武家地の市街地化が進みつつあったことがわかる。
なお、首都機能が完全に移転し、再び日本の政治的中心となった東京は急速に人口が増加し、大半が「都心」となっていた港区域においても市街地が発展していく。その急速な市街地の発展に対して、都市基盤を整備し、都市としての近代化を図るために、明治一〇年代半ばより市区改正が進められることになる。(門松秀樹)