東京府の設置と名主制度の解体

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 慶応四年(一八六八)四月一一日、江戸城が開城したのち、七月一七日、新たに東京と改称された都市を管轄する行政機関として東京府が設置された。
 東京府内の支配機構としては、明治二年(一八六九)三月一〇日、近世の名主制度が廃止され、三月二二日、五〇の番組(区)が設置された。各区の役職としては中年寄(ちゅうどしより)・添年寄(そえどしより)が設置され、各町には町年寄(ちょうどしより)が設置されることになった(鷹見 一九五八)。港区域は、第一四番組から第二二番組に属した。
 ただし、この番組制度は現在の港区域の人と土地全体を覆うものではない。
 なぜならば、第一に、この時点では近世以来の身分集団に基づく行政と空間の区分けがまだ機能していたからである。すなわち、依然として町人地と寺社地・武家地の別は存在しており、番組から町へという行政ルートは町人地に適用されるにすぎない。武家地に住む士族や、散在する社寺にはそれぞれ、中・添年寄とは別に「触頭(ふれがしら)」が置かれ、法令などは触頭を通じて伝達されていた(横山 二〇〇五)。
 第二に、東京府は、江戸という近世の都市の内・外を分ける線であった「朱引(しゅびき)」の線を数度にわたり引き直した。これは、この時期、幕府の消滅に伴い、人口が減少していた東京市街地の境界を適切に定めることが必要であったからである。基本的に、当初東京府は、朱引内地域を縮小しようとしていた。この線は現在の港区を横切るかたちで引かれていたため、改正のたびごとに港区域は朱引内・外に振り分けられる。明治二年二月一九日の改正では、線は「西ハ麻布赤坂四ツ谷市ヶ谷牛込ヲ限リ、南ハ品川県境ヨリ高輪町裏通リ、白金台町二丁目、麻布本村町通リ青山ヲ限リ」とされていたが、明治四年六月の改正では、「海手ヨリ芝金杉橋川筋赤羽根橋増上寺構ヘ付キ(中略)榎坂ヨリ溜池端赤坂御門」と、さらに北上して引かれている(東京都編 一九六二)。明治二年の五〇番組制にもどれば、これは、朱引内、すなわち市街地とみなされた地域の制度である。朱引外の郷村地区には、それとは別に五つの番組が置かれ、港区域では白金台町(現在の白金台一・三~五丁目、白金二丁目)などが「地方(じかた)一番組」に属した(東京都編 一九六一a)。
 明治二年八月には「東京府戸籍編製法」が出され、町年寄が一町内の戸籍を編製することとなった。港区域では、港区立郷土歴史館が収蔵する「麻布本村町会資料」中に、この東京府戸籍編製法に基づいて作成された明治四年の戸籍簿が現存する。この政策は、都市における無籍住民の増加と、それに伴う治安問題(「脱籍浮浪人問題」)への対応であるが、しかし、これも後年の戸籍法に基づく戸籍とは異なり、町人地を対象とした施策である。そのことは、翌年に士族のみを対象とした「東京府士籍法」が公布されていることからも明らかである(横山 二〇〇五)。港区域は、行政的なまとまりをなすにはほど遠い状況にあった。(松沢裕作)