こうした状況は、明治四年(一八七一)に入ると大きく変化する。
同年四月四日、中央法令として太政官布告第一七〇号「戸籍法」が公布され、属地主義によって一定の空間に居住する住民を戸ごとに把握し、かつ、戸籍編製の単位として「区」が置かれることになった。これに対応し、東京府は六月、朱引内を四四の区に編制した。朱引外は六つの大区に編制されたのち、八月に朱引内の番号からと連続する四五から六九の二五区にまとめられた。
戸籍法は、従来の身分とは無関係に、その土地に居住する者を把握することを目指していたため、武家地も町人地も、「区」に編製される。しかし、まだこの時点の「区」は、戸籍を編製するという目的に特化した区(「戸籍区」)であり、士族触頭(ふれがしら)と、中(ちゅう)・添年寄(そえどしより)の双方から「仮区長」「仮戸長」が選ばれているように、身分制的な性格も残していた(横山 二〇〇五)。