大区小区制

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 ところが、いったん身分を越えた戸籍に基づく「区」が成立すると、「区」は単に戸籍編製の単位だけではなく、一般的な行政のルートとして使われるようになる。この段階で区は、その地域内の行政一般を扱うようになり、近世の身分制的な統治のあり方が最終的に解体される。
 このような変化は、明治四年(一八七一)一一月に、東京府内が六大区九七区(のち九四区)に編制されたことによって起きた。一般的に、府県の下を大区―小区―町村という三階層の区画に分けるこの時期の地方制度のあり方を「大区小区制」と呼び、明治一一年に郡区町村編制法が施行されるまで続く。東京府の大区小区制の変化は目まぐるしいが、港区域は、おおむね第二大区(芝、麻布地区)と第三大区(赤坂地区)、一部(白金台町など)が朱引外の第七大区に属していた。
 明治七年七月の時点での区の配置状況を、『改正新刻東京町鑑』によってみれば、各大区の長は区長で、各大区に一~二名任命されている。一方、小区の事務所である小区扱所(あつかいじょ)は、ひとつの扱所で複数の小区を管轄するものが多く、港区域では芝口一丁目(現在の新橋一丁目、第二大区第一・第二小区を管轄)、芝浜松町二丁目(現在の浜松町二丁目、芝大門二丁目、第二大区第三・第五小区を管轄)、西久保八幡町(現在の虎ノ門五丁目、麻布台一丁目、第二大区第四・第六・第七小区を管轄)、芝通新町(現在の芝五丁目、三田三丁目、第二大区第八・第九・第一〇小区を管轄)、高輪北町(現在の高輪二~三丁目、第二大区第一一小区を管轄)、麻布宮村町(現在の六本木六丁目、元麻布二~三丁目、第二大区第一二小区を管轄)、赤坂田町一丁目(現在の赤坂三丁目、第三大区第七・第八小区を管轄)に扱所が置かれ、朱引外の白金台町一丁目(現在の白金台一丁目、白金二丁目)に第七大区一小区の扱所が置かれていた。各小区にはその長として、戸長一、三名、朱引内には年寄一、二名、朱引外では副戸長が、扱所の役員として置かれていた。
 明治九年、小区扱所は「区務所」と改称され、その職員として「書記」が配置された。区務所には出納・庶務・戸籍などの分課も設けられた(牛米 一九九三)。こうして、次第にのちの「区役所」の原型が姿を現してくる。