三新法と芝・麻布・赤坂三区の設定

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 明治一一年(一八七八)七月二二日、太政官布告第一七号「郡区町村編制法」、第一八号「府県会規則」、第一九号「地方税規則」の三つの法令、いわゆる「地方三新法」が公布された。戦前の港区域の基本的な行政の枠組みとなる、芝・麻布・赤坂の三区が設置されたのは、この地方制度改革に伴うものであった。
 三新法のうち、地方区画に関わるものは「郡区町村編制法」である。同法は、府県の下に、農村部には郡、都市部には区を設置し、郡区それぞれの下に町・村を置くことと定めた。町村の長が戸長である。加えて、三府や開港場などの大都市については、複数の区を設置することが可能であるとし、また、区の場合は町村戸長の事務を区長が担当することを認めた。
 東京府では、この規定に基づき、一五の区が設置され、区長が戸長の事務を兼ねた。区の下には、近世以来の町が、前に述べたような明治初期の再編を経たのちに、そのまま郡区町村編制法に定める「町」として位置付けられたが、それぞれの町の代表者として戸長が任じられることはなく、区長のみが任命されたわけである。
 こうした枠組みのもとで、芝・麻布・赤坂の三区はどのように設定されたのだろうか。明治一一年七月二七日、東京府知事の楠本正隆は、内務卿の伊藤博文に、東京府内の区の編制について伺を出し、九月一四日に内務卿の許可を得た(東京都編 一九六九)。これによって一五区の区画が定まったわけであるが、その際、楠本は、区の名称として従来どおり数字を使わず地名を用いたのは、郡の名称に地名を用いたことと合わせたためであり、また、人々になじみのある地名を用いることによって、区内の「団結の力」を増すことができ諸事便利であるからだと述べている。また、「其名称二三ニ渉ルモ一区ニ約セサル可カラサルモノハ其戸口ノ多キモノヲ以テ之ニ加フルモノトセリ。(芝区ノ三田ニ於ル小石川区ノ小日向ニ於ケルノ類)」として、複数の選択肢がある場合には、戸数の多寡によって決定したことが述べられ、「三田区」ではなく「芝区」が選択された理由を説明している。
 ここまでみてきたとおり、明治維新以来の区画の変更は目まぐるしいものがあり、ここで設置された一五区もまた新規の区画であった。そこに従来からの地理的まとまりがあったとは必ずしもいえない。したがって、大区小区期と同様、数字を使うことも選択肢としてはあり得たが、新規であればこそ「団結」を増す必要があり、地名を区の名称に用いたことが、楠本の上申書からはうかがえる。
 内務卿の許可を経て、明治一一年一一月二日に、東京府は郡区編制を発令し、同日、区役所の設置と区長の任命も発令した。芝区役所は芝公園地大門通安養院(図1-2-2-1)に、麻布区役所は麻布宮村町旧区務所に、赤坂区役所は赤坂表三丁目に設置され、芝区長には東京府御用掛(ごようがかり)相原安次郎が、麻布区長に東京府二等属前田利充、赤坂区長事務代理に東京府御用掛浦田長民(翌明治一二年一月に島津忠亮(ただあきら)が区長就任)が任じられた(東京都編 一九六九)。区長は現在のように選挙で選ばれるわけではなく、官選であり、身分としては国の官吏であった。区役所の事務費用は府の財政で賄われており、区役所は東京府の出先機関として位置付けられていた。
 これに対して、区の、住民のまとまりとしての側面を示すものが区会である。地方三新法には、府県会の規定はあるものの、郡区や町村についての規定はない。しかし、東京府では府独自の法令として、明治一二年に東京府区町村会規則が制定され(東京都編 一九七〇)、区が主体となって行う事業の決定やその予算、区費の徴収法、共有財産の管理法を議決する機関として区会が置かれることになった。
 明治一二年一二月一二日、東京府知事は楠本正隆から松田道之に交替するが、その際の引き継ぎ書類のなかで楠本正隆は、一五区は人の出入りが激しいために人々のつながりが弱く、安定した事業を支えるという意識も薄いことから区会を開設し、「共有財産区費等の事項を議定せしめ、各区団結の端緒を開」いたと述べている(東京都編 一九七一)。ここから、芝・麻布・赤坂の三区を含む東京市一五区は、このときに成立した新規の区画であり、それ以前から連続する共同性に乏しいこと、そこに区会が設置されたことによって共通の予算、共有財産という共同性が新たに作り出されたことが読みとれる。
 

図1-2-2-1 明治11年(1878)に芝区役所が置かれた安養院
安養院所蔵