三新法期の区行政

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 以下、三新法期の区長・区役所・区財政の様相をみていこう。
 表1-2-2-1は、三新法期(明治二年の区設置から明治二二年の市制施行まで)の、芝・麻布・赤坂三区の区長の一覧である。三区の区長は兼任している場合が多く、最初、麻布区専任であった前田利充は、明治一三年(一八八〇)から芝区長を、その後、赤坂区長も兼ね、芝区長の兼任が明治一四年に解かれたのちも、麻布・赤坂区長を兼ねた。その後も麻布・赤坂区長の兼任は続く。芝区では、福澤諭吉の出身地、中津藩の旧藩主である華族の奥平昌邁(まさゆき)が目を惹くほかは、地方を渡り歩く内務省の官吏が、そのキャリアの途上で区長職を務めている傾向にある。麻布区・赤坂区長も、赤坂区で、初期に島津忠亮・堀田正養(まさやす)という華族が区長を務めたのちには地方官吏が区長となっている。華族区長のうち、奥平と島津はそれぞれ区内に邸宅を構えているが、堀田の住所は浅草区である(彦根編 一八八七)。総じて、区長には地域代表としての性格はなく、東京府の出先機関の官吏としての性格が強いものであったといえよう。
 区役所の組織と職員数については、芝区の明治一五年の数値が知られる(表1-2-2-2)。職階は書記、傭、給仕、小使の四階層であるが、このうち正式の吏員は書記のみであり、傭以下は、今日でいえば非正規雇用の人たちに近い。組織は庶務・戸籍・租税・出納の四掛に分かれており、租税掛の人員が多い。国税・地方税徴収事務が区役所の事務の大きな部分を占めていたことがわかる。また、明治一四、一五年の麻布区の書類受付件数(表1-2-2-3)をみると、戸籍掛の受付件数が突出している。人口の流動性の高い都市部では、出入籍・寄留などの事務が多かったことがうかがえる。
 区長の兼任が頻繁に行われたことについて、明治一三年の東京府会で、東京横浜毎日新聞・嚶鳴(おうめい)社を率いて、のちに立憲改進党に参加する民権派の知識人、沼間守一(ぬまもりかず)は、経費削減の観点から毎区に一人ずつ区長を置く必要はないと主張し、実際に芝区と麻布区は区長を兼任しているではないかと主張している。これに対して芝区選出の府会議員馬場半助は、区長が芝・麻布兼任となって以降、区長は午前は芝、午後は麻布区役所で執務している状況であり、区民にとっては不便であると主張している。このときは、予算として一五区に一名ずつの区長給与が確保されたものの、芝・麻布・赤坂の三区で区長兼任が続くのはこのような予算上の問題があったと思われる。また、同じ東京府会で、沼間は区役所の小使の削減も提案しているが、これにも馬場は、「薄給ニテ漸ク小使トナリテ僅カニ口ヲ糊スル」者たちである、すなわち、都市住民の貴重な雇用先であると述べて反論している。これを受けて沼間は、「区役所ヲ救育所ノ如ク思ハルヽハ実ニ驚クヘキコトナリ」、つまり、区役所は慈善施設ではないのだと反撃を加えている(「明治十三年東京府会通常会議事録」)。このやり取りは、当時の区役所の下級職員の社会的な地位をうかがわせるもので、興味深い。
 

表1-2-2-1 三新法期の区長

『芝区誌』(1938)、『麻布区史』(1941)、『赤坂区史』(1941)、「第1種 秘書*進退録・郡吏・郡区雇・郡区傭、傭、官吏院局、冊ノ10」(「東京府文書」東京都公文書館所蔵 601.A4.13)をもとに作成。履歴などは国立公文書館所蔵史料による。

表1-2-2-2 明治15年(1882)芝区役所人員数

「第1種 秘書*年末現員簿(職務係)冊之」(「東京府文書」東京都公文書館所蔵 601.A5.11)をもとに作成

表1-2-2-3 明治14~15年(1881~1882)麻布区役所の書類受付件数

「長官各郡区巡視之節一覧書類〈庶務課〉明治16年7月」(「東京府文書」東京都公文書館所蔵 604.A4.10)をもとに作成