三新法体制期の区財政と区会

65 ~ 67 / 353ページ
 区長のあり方が、区の府の出先機関としての側面を表しているとすれば、地域住民の共同組織としての区の側面を表しているのが、区民の負担で賄われる区の財政と、それを議決する区会である。
 芝区の区費財政のあり方を示したものが、表1-2-2-4である。ここからは、三つの画期を読みとることができる。第一の画期は、明治一四年度(一八八一)で、教育費の増大による区財政の大幅膨張がみられる。第二の画期は明治一七年度で、全国的に実施された地方制度改革の一環で、区費の費目の限定と整理が行われた。第三の画期は、明治二〇年度の教育費の減少で、このときに教育費は直接支出から、各学校への補助費に変更された。このように、教育費の動向が区の財政規模を大きく左右していた。一五区設置の時点では、小学校維持の単位は区ではなく、町の連合体である「学区」であった(明治一一年一一月八日東京府達乙三七号)。その後、東京市一五区では、区会の議決を経て、学校は区の共有財産となるかたちをとりつつも、実際の費用負担は、区全体ではなく学校ごとの独立財政で維持するかたちが一般的になっていく(土方 二〇〇二)。芝区の明治一四年度の教育費膨張は、小学校維持費を区全体の予算として計上したものと思われ、明治二〇年度以降の補助費化は、小学校財政の独立化を意味すると考えられる。
 麻布区については、区財政について毎年度の情報を得ることはできないが、明治一三年から水道敷設が区の事業として取り組まれ、その予算規模は三万四〇〇〇円と大きかった(『麻布区史』一九四一)。
 赤坂区の財政は表1-2-2-5に示すとおりで、教育費が芝区より一年遅れて明治一五年に増大、明治一七年にピークを迎え、その後、減少している点は芝区と同じ傾向をみせている。
 こうした事業と予算の議決を行ったのが区会である。三新法期には、のちの東京市にあたる自治体がなかったため、区および区会の役割はのちの時期に比べて大きく、芝区会は、明治一六年の一年間で一二九回、明治一七年には一二八回、明治一八年には一二九回も開催されたという(『芝区誌』一九三八)。
 

表1-2-2-4 芝区協議費・区費支出額推移(単位:円)

『芝区誌』(1938)をもとに作成。明治17年~19年は予算額、明治20年~21年は決算額。
明治19年の支出合計には予備費を含む。

表1-2-2-5 赤坂区協議費・区費支出額推移(単位:円)
『赤坂区史』(1941)をもとに作成