近世の都市、江戸において、町人地の基本的な単位は「町」であった。この「町」は、行政単位としては、形式的には大区小区制期・三新法期を通じて存続し、地方制度上の単位としての地位を失うのは、明治二二年(一八八九)の東京市設置によってである。
しかし、それに先立って、行政の単位としての町の比重は低下していった。近世の町の正規の構成員は、町に居住し、そこに土地・家屋(町屋敷)を所有する者であるが、不在地主が増加すると、次第に地主の代理人である「家守(やもり)」が町運営の中心に立つようになった。そして、「家守」は地主の代理人であると同時に、都市の末端行政機構を担っていた。
明治に入ると家守は、数度の改称を経て、明治六年以降は「差配人(さはいにん)」と呼ばれるようになった。そして、東京府は「家守」を行政上の業務から排除する方針を採り、明治二年六月に家守が町の業務に関与することを禁止した。それに代わり、町の業務担当者として「町年寄」が設置されることになった(森田 二〇〇七)。当初、町年寄に選出された者は元家守が多かったが、明治三年四月二七日に従来の町年寄が総免職となり、町年寄はその町に居住する地主が無給で交代で務めることになり、その下に町用掛が置かれた(東京都編 一九六一b、牛米 一九九三)。さらに明治六年に町年寄が廃止され、小区年寄となり、町用掛も各町の役職ではなく小区の役職となった。これによって行政事務は小区単位に集約された(東京都編 一九六三)。各町単位の財政である町入用(ちょうにゅうよう)も廃止され、小区が住民と直接に向かい合う仕組みが構築されたのである。
こうして、行政単位としての町の意味は低下していくが、明治九年、全国法令として、太政官布告第一三〇号「各区町村金穀公借共有物取扱土木起功規則」が出されると、区・町の借り入れ、共有物売買、土木事業実施を議論する代議人として、小区・町村単位に「総代人」が置かれることになったが、三新法の施行後の明治一二年、同職は廃止された(池田 二〇一二)。
芝・麻布・赤坂三区の設置により、前項で述べたように、郡区町村編制法に定められた町の機能は、すべて区に吸収された。最後に残されたのは、法令を伝達する機能であったが、府から町の地主を経由しての法令伝達は明治一三年には廃止され、掲示と新聞への掲載に切り替えられた(森田 二〇〇七)。実際、「麻布本村町会資料」に残されている布達類をみると、府から伝達された法令は明治一三年を下限としており、麻布区からの布達類も明治一七年を下限としている。
一方で、住民と区の間をつなぐ機構・役職がないことは不便な側面もあったようだ。明治一二年と同一三年の芝区会では、町単位ないし複数の町単位で「肝煎(きもいり)」「世話役」の設置が提案されている。明治一三年の提案では、その趣旨が次のように説明されている(「区会雑書」)。
凡ソ人民ヲシテ苦情怨嗟ヲ訴ヘシムル所以ノモノ他ナシ、上令下ニ達セス、下情上ニ通セサルノ致ス所ナリ、依テ今仮リニ左ノ法ヲ設ケ世話役ヲシテ区役所ト区民トノ間ニ往復シ公事ヲ料理セシメントス、要スル所、上下相和シ百事凝滞無ランコトヲ欲スレハナリ
つまり、上からの命令が住民に届かず、また、住民の事情が上に届かないことが、住民の苦情の原因になっているため「世話役」を設置して区役所と区民の間をつなごうというのである。この計画は明治一五年になって実現し、原則として各町一人の「世話掛」が、その町に居住する地主・差配人のなかから、その町に居住する地主の選挙によって選ばれることになった(「回議録・第一二類・聯合区会臨時区会決議」)。いったん行政の系統から排除されたはずの差配人がここで「世話掛」の就任資格を持つ者として復活していることは興味深い。明治一五年一一月一三日付で、東京府宛に提出された芝区白金台町一丁目の道路修繕願は、同町の世話掛と地主惣代の連名で出されており、実際に世話掛が設置されたことがわかるものの(「回議録・甲〈土木課〉明治一五年一一月」)、この世話掛制度がいつまで機能していたのかは明らかではなく、明治二二年の市制施行までに消滅したものと思われる。こうして、近世以来の町は、明治前期に行政の単位としての役割を喪失したのである。(松沢裕作)