学制以前の教育

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 近代学校制度は明治五年(一八七二)の学制をもって始まるが、明治政府や府県の小学校政策はそれ以前から進められていた。明治二年二月、明治政府は「府県施政順序」を布告し、府県知事の職掌(しきしょう)(役目)、府県の予算、議事方法、戸籍の編成などとともに「小学校ヲ設ル事」という一項を掲げ、小学校の設置を府県行政の重要な一環として打ち出した。同年三月、東京府に中小学校取調掛が置かれ、翌三年二月に大学規則および中小学規則が定められた。これを受けて東京府は、同年六月に芝増上寺源流院、市ケ谷洞雲寺、牛込万昌院、本郷本妙寺、浅草西福寺、深川森下町長慶寺の六か所に小学校を開設した。これらは、明治四年七月に文部省が設置されると、それに伴い同年九月に文部省直轄となった。
 港区域内に設置された芝増上寺源流院内の小学校が六校中で最も早く、「仮小学第一校」と称した(図1-3-1-1、のちの鞆絵(ともえ)小学校)。初代校長は大訓導村上珍休であり、生徒の年齢は八歳から一五歳で、午前八時より登校し、句読・習字・算術などを勉学した。
 一方、一般民衆の教育は依然として江戸時代から続く寺子屋・私塾に負うところが大きく、寺子屋・私塾は明治期に入ってからも開設された。また、地元の有力者や有志の協力により区学校(郷学校)も設立された。そのなかには学制実施後に公立小学校に改められたもの(開蒙社が御田(みた)学校、春林寺の区内幼童学所が南海学校、育幼社が桜川学校など)や私立小学校として発展したもの(培其根が培根学校、竜海堂が竹芝学校、幼学所が共栄学校など)があり、寺子屋・私塾の多くも私立学校となった。