官立の中等教育機関

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 近代の中等教育は明治一九年(一八八六)四月一〇日勅令第一五号「中学校令」公布まで未整備の状況であった。そのなかにあって、港区域内でのちに中等教育・高等教育の役割を担っていく代表的な機関が、官立の開拓使仮学校および、私塾であった慶應義塾と攻玉塾(こうぎょくじゅく)である。
 開拓使仮学校は、明治五年四月に芝区増上寺本坊に開校した(図1-3-2-1)。北海道開拓の人材養成のための学校であり、生徒定員は官費生・私費生各五〇名であった。「普通学」と「専門学」の二科があり、普通学として英語学、漢学、算術、手習、画学、日本地理、究理学、歴史を学び、普通学を修了した者が専門学科に進学した。修了生徒は、五年間の北海道開拓従事が義務付けられている。生徒の質的な問題や財政的破綻などを原因として、明治六年にいったん閉校し、生徒全員を退学させたが同年再開し、明治八年に札幌に移転し、現在の北海道大学の前身となった。
 また、仮学校内には明治五年九月に女学校が開設されている。官立の女学校としては東京女学校の前身である官立女学校に次いで、日本では二番目の開校となる。定員五〇名全員が政府から支出される公費で修学する官費生であり、和漢学、英学、歴史、地理、算術、裁縫などを教授された。明治六年に定められた「入校証書」により、五年間開拓に従事すること、北海道に在籍する者と結婚すること、退学を命じられた場合は学費を弁済することが義務付けられている。
 ほかの官立の機関としては、需要が増加していた電信技術者養成のために、明治六年八月に芝汐留に開校された修技学校がある。当初は工部省の倉庫が校舎として用いられていたが、そののちに新校舎を増築した。明治一四年に失火で焼失したため仮校舎へ移ったのち、明治一七年三月には赤坂溜池工部省構内美術学校跡に移転し、さらにその二年後には芝公園海軍省跡に移転し電信修技学校と改称した。
 また、明治七年一〇月には、海軍経理学校の前身である海軍会計学舎が増上寺のある芝山内天神谷に開設されている。明治九年に海軍主計学舎と改称し、翌年には芝山内の湿気が原因で脚気患者が続出したという理由で、池上本門寺内(現在の東京都大田区)に移転したが、間もなく廃止となる。明治一五年に芝公園三嶋谷に再興したのち、明治二一年に京橋区築地四丁目(現在の東京都中央区築地五丁目)に移転することとなる。
 

図1-3-2-1 開拓使仮学校校舎(明治5年〈1872〉)
北海道大学大学文書館所蔵