慶應義塾

79 ~ 80 / 353ページ
 福澤諭吉が築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町の聖路加国際病院付近)の中津藩中屋敷長屋に蘭学塾を開いたのは、安政五年(一八五八)である。文久元年(一八六一)に、芝新銭座(しばしんせんざ)町(現在の浜松町一丁目)の借家に移転したが、これに先駆けて万延元年(一八六〇)、福澤はアメリカへ派遣される咸臨丸(かんりんまる)に、軍艦奉行木村喜毅(きむらよしたけ)の従僕の名義で随行している。また、文久二年(一八六二)には開港開市延期の交渉のため、ヨーロッパに派遣された幕府使節団の一員として渡欧している。
 新しい洋学の必要性を強く感じていた福澤は、文久三年の秋に鉄砲洲へもどした蘭学塾を英学塾に転向する。慶応四年(一八六八)には塾生急増のため、芝新銭座町の有馬家控屋敷を買収、移転し、元号にちなんで慶應義塾と名付けた。同年五月の上野戦争の際には、砲声のなかで福澤がウェーランド経済書の講義を行ったという逸話がある。明治二年(一八六九)には、汐留中津藩上屋敷内に分塾である汐留出張所を設け、その藩邸が上地されると古川端(三田豊岡町〈現在の三田五丁目〉)の龍源寺を分塾とし、また芝新銭座町付近の江川太郎左衛門屋敷跡(東新橋一丁目付近)を外塾に、増上寺山内廣度院を分塾とするなどしていた。塾生増加に従い手狭になった芝新銭座町より、明治四年島原藩松平家の中屋敷を貸し下げられ、三田に移転した。
 明治六年には慶應義塾医学所を設け、翌年には幼稚舎が開設された。明治八年には三田演説館が開設されている。明治二三年に大学部(文学・理財・法律科)を設置し、大正九年(一九二〇)に「大学令」による認可を受けた最初の旧制私立大学となる。