攻玉塾

80 ~ 80 / 353ページ
 文久三年(一八六三)に近藤真琴(一八三一~一八八六)が四谷坂町鳥羽藩邸内に蘭学塾を開いた。これが攻玉塾の原点である。オランダ海軍のピラールの『航海書』やレースの『海軍士官必携』を教科書としてオランダ語を教授していたが、明治と改元された頃には、藩主に従って故郷の鳥羽に帰郷していた。
 明治二年(一八六九)に、明治政府が築地の軍艦操練所跡地に兵部省海軍操練所を作り、近藤は教官に任じられる。海軍操練所は、海軍兵学校の前身であり海軍士官の養成を目的としていた。上京した近藤が麴町の鳥羽藩邸を居とすると、門人たちが再び近藤のもとに集まるようになる。海軍操練所の授業開始とともに、築地の旧一橋家下屋敷の官舎に塾を再興させ、攻玉塾と称した。明治四年、芝新銭座町の慶應義塾跡地へ移転する。学科は、航海、測量術、和、漢、蘭、英、数学が設定された。明治八年、近藤はここにわが国初の商船学校となる航海測量習練所を併設する。学科は、予科・本科に分かれ、予科では算術から代数・幾何・三角法など数学の基礎を教授し、本科では、天文学、航海歴、高度算法、緯度算法、経度算法などを教えた。明治一四年には攻玉塾を攻玉社と改め、明治二六年には攻玉尋常中学校となった。
 関東大震災で荏原郡大崎町(現在の東京都品川区西五反田)へ移転したが、その間、海軍軍人の中心となる人材を多く養成し、日清戦争の出征海軍将校の三八パーセント、日露戦争でも二〇パーセント余りを出身者で占めたといわれる。卒業生から八名が大臣に就任し、のちの内閣総理大臣鈴木貫太郎を輩出している。(野村 和)