第三項 幼児教育の発足

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 明治五年(一八七二)に公布された「学制」では「小学校」の区分として「幼稚小学」の名称を挙げていたが、これは実現に至らず、明治九年、日本で最初の幼稚園として東京女子師範学校附属幼稚園(現在のお茶の水女子大学附属幼稚園)が創設された。その保育は欧米のフレーベル主義幼稚園の方法に倣(なら)って行われ、フレーベルが考案した遊具や作業具は、日本では一括して「恩物(おんぶつ)」と呼ばれ、保育内容の中心に位置付けられた。この恩物のなかには今日まで親しまれている積み木、折り紙、粘土なども含まれている。東京女子師範学校附属幼稚園は創設から明治一七年までに四度の規則改正を行った。幼稚園に関する準拠すべき法令がなかった当時、「東京女子師範学校附属幼稚園規則」は各地の幼稚園の参考とされた(湯川 二〇〇一)。
 東京府では東京女子師範学校附属幼稚園の創設後、明治一三年四月に初の私立幼稚園として麴町区に桜井女学校附属幼稚園が設立された。同園はキリスト教に基づく幼稚園であった。翌一四年には、本所区の公立江東小学校内に附属幼稚園が設立された。明治一四年までに全国で幼稚園はわずか七園であり、小学校教育の普及が最優先とされるなかで幼稚園の設立は遅々として進まなかった。
 明治一七年、文部省はそれまで小学校に通学していた学齢未満の幼児の就学を禁止し、府県に対して、幼児は「幼稚園ノ方法」により保育を行うように通達した(当時約一一万六七〇〇人もの幼児が小学校に就学していた)。学齢未満の幼児に学齢児童と同一の教育を受けさせるのは幼児の心身の発育を阻害するおそれがあるからだという。これを受けて各府県では小学校に保育科が設置され、幼稚園数は明治一九年頃から年々増加していった(湯川 二〇〇一)。
 港区域で初の幼稚園は、明治一六年に赤坂区氷川町(現在の赤坂六丁目)に設立された共立幼稚園第二分園であり(第一分園は四谷区に開設)、東京府では六番目であった。翌一七年には芝区に芝麻布共立幼稚園(図1-3-3-1)が設立された。芝麻布共立幼稚園の設立者は、日本銀行の初代副総裁で、のちに東京府知事に任じられた富田鉄之助(とみたてつのすけ)、読売新聞初代社長の子安峻(こやすたかし)、元神奈川県参事の山東直砥(さんとうなおと)の三人で、いずれも社会的地位の高い人物であった。園長兼保母には、東京女子師範学校附属幼稚園で創設当初より五年にわたって保母を務めた近藤はまが迎えられ、東京女子師範学校附属幼稚園での経験を生かして保育を実践し、指導したものと思われる。幼児定員は百名とし、保育料は一か月一円であった。開設当初は入園できるのは中流以上の家庭の子どもに限られ、市内各所から華族の子弟が通って来ていたという。保育課目は、恩物(球ノ遊ヒ、三ツノ体チ、木(き)ノ積立(つみたて)、板排(いたなら)ヘ、箸排(はしなら)ヘ、鐶排(かんなら)ヘ、画キ方、紙刺(かみさ)シ、縫取(ぬいと)リ、紙剪(かみき)リ、紙織(かみお)リ、鎖繋(くさりつな)キ、組板(くみいた)、組紙(くみがみ)、紙摺(かみたた)ミ、豆細工、土細工)を中心とし、それに「数ヘ方」「読ミ方」「書キ方」「唱歌」「説話」「遊嬉体操」を加えて構成されている。そこには明治一四年改正の「東京女子師範学校附属幼稚園規則」の影響がうかがえるが、東京女子師範学校附属幼稚園では採用されていない恩物類も取り入れられていることから単なる模倣ではなかったことがわかる。
 恩物は本来、子どもの遊びを発展させるために考案されたものであったが、明治期の日本においては遊びの教育的価値は十分に理解されず、恩物を中心とした形式的・画一的な保育が行われることが多かった。また、保育材料の調達が困難で幼児向けの教材も乏しいなかで、実践にあたる保母たちの苦労は大きかったと推察される。明治二〇年代以降、恩物中心の保育への批判が高まるにつれて、次第にその改善が図られるようになっていく。(小山みずえ)
 

図1-3-3-1 芝麻布共立幼稚園
東京府編 『東京府史 行政篇』五(1937)国立国会図書館デジタルコレクションから転載