三田演説会

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 近代国家の確立を目指す日本にとって、「富国強兵」という国家的課題のなかで、西洋の近代科学の知識や技術を受容することや、社会経験をとおして自己教育を継続していくことが重要であった。社会教育という用語に遅れて通俗教育という用語が現れ、教育行政の管掌項目として「通俗教育」が用いられるのは明治一八年(一八八五)である。しかし、それ以前にも、知識人の啓蒙のために演説会や出版活動などは行われていた。
 この時期、知識中心型の啓蒙のために、港区域で社会教育に大きな役割を果たしたのが三田演説会である。スピーチを「演説」と翻訳し、ディベートを「討論」と訳し、「可決」、「否決」、「賛成」などの討論に使われる語を提案し演説を実践したのが福澤諭吉とその門下生であった。
 慶應義塾内に三田演説会が設けられたのは明治七年六月二七日であり、第一回の演説会は同年の七月一日に行われている。
 明治六年に結成された近代知識人のサロンであった明六社において福澤が演説の必要を説いたところ、森有礼(もりありのり)が「西洋流の演説は西洋語に非れば叶はず、日本語は唯座談、応対に適するのみ、公衆に向って思ふ所を述ぶ可き性質の語に非ず」と反対していたという話が残っている。後日、「(福澤が明六社の会合で)当時の問題たりし台湾征討に関する事柄を極めて平易に、且つ面白く弁じ」たので話の内容をよく理解できた、という周囲の返答に対して、福澤は「小生一人の述べた所の言葉が(中略)即ち演説である」と伝えて周囲の賛同を得た、といわれている(東奥 一九一五)。
 当初は、会員だけで弁論術を磨くことを目的としていた三田演説会だが、世人の啓蒙のためには演説の方法を世間一般に普及させることが必要であるという認識から、明治八年に三田演説館(図1-3-4-1)を開館し、一般にも演説会を公開するに至った。三田演説館は、床面積が五八坪程度で四〇〇~五〇〇名の聴衆の収容が可能であり、「天井は勿論、演壇背後の壁を半円にし、音声の反響して遠くに徹底する」ための建築であった(東奥 一九一五)。
 とくに明治九年以降は公開演説会のみ開催し、明治一〇年に第一〇〇回の記念大会を行っている。演説会には毎回多数の聴衆があり、ときには立ち見の余地がないどころか、堂にあふれて演説館を取り巻いて出演者の熱弁に耳を傾ける者もあったという(港区教育史 一九八七)。
 

図1-3-4-1 現在の三田演説館
提供:慶應義塾広報室