酒造業

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 明治以降の産業では、とかく西洋の技術や機械を用いた近代産業に注目が集まりがちだが、近世以来の在来産業のなかには、旧来の技術のまま明治以降も発展を続けるものがあった。その最たるものが、酒造業、醬油醸造業、味噌醸造業などの醸造業であった。醸造業は、微生物の発酵作用により飲料や調味料を造る産業であり、酢や味醂(みりん)の製造も醸造業である。日本史上初のマクロ統計である『明治七年府県物産表』によれば、当時の日本の工業製品のうち、最も生産額が多かったのが酒類、次いで綿織物、醬油、生糸、味噌と続き、一位、三位、五位に醸造製品が入っている(明治文献資料刊行会編 一九五九)。明治初期の日本において、醸造業は工業部門のうちの最も主要な位置を占めていたといえる。とくに酒類、なかでも清酒は、以後も生産額を増やし続け、綿糸や生糸を抑えて、明治期の間はほぼ毎年、全工業製品のなかで生産額一位の座を守り続けるのである(浜野・井奥ほか 二〇一七)。
 当該期東京で流通していた清酒は下り酒が主であり、港区域(当時の芝区、麻布区、赤坂区)で酒造業は盛んであったとはいえないが、小規模な酒造業者が少なからず存在していた。表1-4-1-1は、その様子を示したものである。日本全体としては、当該期の清酒の生産量は、松方デフレ直前の一八八〇年代初頭にピークがあり、松方デフレ期(明治一四~一九年)に落ち込んで、その後回復するという動きを見せるが(中村 一九八九)、港区域の清酒生産も、量は少ないながらも、それと同じような動向を見せている。しかし、同じ酒でも濁酒、焼酎といった酒はむしろ松方デフレ期に生産量を伸ばしている。これは、景気の悪いときは人々が高価な清酒よりも、いわゆる安酒を求めたというふうに解釈できるのではないだろうか。とくに下層の労働者の多かった芝区において、その傾向は顕著に表れているように思われる。それらの安酒は、松方デフレ後の明治二〇年代の景気回復期には、むしろ生産量を減らしている。
 その後港区域の酒造業は、この地域での近代産業の発展と反比例するように徐々に衰退していき、酒はより一層外部からの移入に依存するようになっていくのである。