醬油醸造業

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 港区域で醬油醸造業は芝区にのみ存在し、当該期における業者数は二~三軒であった。同区内の醸造石高の合計は、松方デフレ期の間は五〇〇石台であったが、同期を乗り越えると、業者数に変化はないものの醸造石高は明治二一年(一八八八)に約八〇〇石、同二二年には一二〇〇石台と、急増している(表1-4-1-2)。
 当該期日本の一人あたり年間醬油消費量はおよそ三升であるから(井奥 二〇〇六 ちなみに、近年の日本の一人当たり年間醬油消費量は約四升である)、芝区内では明治一七年で一万数千人、同二二年で三万数千人分ぐらいの醬油を造っていたことになるが、いずれも当該期芝区一〇万人前後の醬油需要を賄いきれる数字ではない。当時東京では醬油を野田や銚子など関東の大産地から移入していた。港区域でも当然それらの地域からの移入があったことであろうし、また逆に、芝区内で製造された醬油が区外へ移出されるということもあったであろう。
 その後の芝区内の醬油醸造業は、酒造業同様、この地域で近代産業が発展するにつれ衰退していき、明治末には統計から姿を消している。
 
 

表1-4-1-1 港区域における酒造業の展開(単位:石高は石、人員は人) 

注1)小数点以下は切り捨てた。そのため各欄の合計が合計欄の数値と若干異なる場合がある。n/aはもとになった史料にその欄がないことを示す。空欄は、数値がゼロであることを示す。
注2)明治20年統計書には(明治20年の数値はなく)明治19年の数値が載っているが、明治19年統計書所載の数値と若干異なる部分があるので、併記しておいた。下の行の方が明治20年統計書所載の数値である。
注3)明治22年、23年の麻布総数は、原典には味醂が含まれているため除外した数値を掲載した。
東京府『東京府統計書』(1884、1885、1886、1887年2月・10月、1888、1889、1890、1892)をもとに作成

表1-4-1-2 港区域における醬油醸造業の展開(単位:石高は石、人員は人)

注)小数点以下は切り捨てた。n/aはもとになった史料にその欄がないことを示す。空欄は、数値がゼロであることを示す。
東京府『東京府統計書』(1887年2月・10月、1888、1889、1890)をもとに作成