明治一〇年代の『東京府統計書』の「工場」の項を見ると、全体として掲載されている工場の数自体が少なく、近代産業が未発達であった様子がうかがえる。すべての工場が捕捉されていたわけではないのかもしれないが、港区域で目につくのは、芝区の「機織(はたおり)」の多さである。明治一五年(一八八二)に五軒、一六年に二〇軒、一七年に一二軒が挙げられているが、ほかの業種の工場がほとんど挙げられていないなかで、群を抜く多さである。芝区の機織工場の数は、ほかの郡区と比べても圧倒的に多い。機織工場は芝区のなかでも三田、田町といったあたりに多く、この時期芝区はちょっとした機織集積地であったと言っても過言ではなさそうである。
しかし、明治二〇年代の統計では状況は一変している。例えば明治二三年の『東京府統計書』には、芝区で機織は一軒しか掲載されておらず、代わって機械、電機、電灯、鋳鉄、ガスなど重化学工業部門の工場が登場している。そしてこうした工業化はロープ需要の増大をもたらし、明治二〇年には渋沢栄一、益田孝らによって麻布区本村町(現在の南麻布三丁目)に東京製綱株式会社(現在の本社は東京都中央区日本橋)が設立された。
また、旧『港区史』や『新修港区史』には港区域で最初の靴工場であった大塚商店についての記述もあるが、明治前期において靴はまだ庶民の履物として一般的ではなく、需要は軍靴など限定的であった。(井奥成彦)