桑と茶

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 明治初期の東京府による「桑茶政策」は、維新後荒れ果てた武家地を農地として利用しようとしたものであり、桑や茶が当時の輸出産業に関わるものであったことから行われたものであろう。ただ、輸出が十分軌道に乗らなかったことと、東京を都市化して首都として発展させようとの政府の政策から、結果的に失敗に終わった(『港区史』一九六〇および『新修港区史』一九七九)。その様子を数字で追ってみると、表1-4-3-3のようになる。
 麻布区では、データが得られるようになる明治一六年(一八八三)時点ですでに桑園は姿を消しており、芝区でも同一九年には桑園は姿を消している。また、赤坂区でも桑園は急減している。赤坂区の桑園はこの後細々と残るが、明治三〇年代に入るとなくなってしまう。
 一方、茶園も徐々に縮小していっている。芝区では明治二一年に茶園が姿を消した後、翌年区域拡張に伴って区内に茶園が入っているが、その次の年には姿を消している。麻布区ではわずかな面積の茶園が維持され続けているが、赤坂区では減少傾向である。なお、茶園面積の推移と表1-4-3-2の製茶生産量の推移とは必ずしもパラレルではないが、これは区外から移入した茶葉を原料として製茶した分もあったからなどと考えられる。
 

表1-4-3-3 港区域における桑園の面積および茶園の面積

注1)面積は小数第2位以下切り捨て。n/aはもとになった史料にその欄がないことを示す。空欄は、数値がゼロであることを示す。
注2)明治16年赤坂区の桑園の面積は、桁数の誤りを修正したものである。
東京府『東京府統計書』(1885、1886、1887年2月・10月、1888、1889、1890、1892)をもとに作成