明治期特有の商業施設として、勧工場があった。これは殖産興業政策のなかで、文字どおり産業を奨励し、できた商品を陳列する目的で各地に作られた公営の施設であったが、実態はいわばテナントが集まったショッピングセンターであった。大きなものは出店数三〇〇以上のものもあったが、平均的には二〇~五〇店であった。勧工場では全商品が陳列式で正札販売を行っており、客は商品を手に取って確かめることができた。そういったこともあって、勧工場は人気を博し、しだいに民営のものも多くなった。勧工場の最盛期は明治三〇年代であったが、やがて同じような業態である百貨店が登場すると、それに取って代わられるようになった(田中 一九九二)。
港区域では、明治二一年(一八八八)に芝公園に東京勧工場が開設され、盛大に開場式が行われた。雑貨、日用品、贈答用の品などを売っていたが、当初は立地条件からか、「お客さんもまばら」であったようである(『新修港区史』一九七九)。しかし、その後次第に客は集まるようになり、明治三〇年代には、東京の勧工場としては銀座の帝国博品館に次ぐ売り上げを記録している(田中 一九九二および『港区史』一九六〇)。(井奥成彦)