西洋の健康保護

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 日本が近代化を目指した明治の時代、港区域の住民を襲ったのがコレラであり、港区域では東京府および明治政府の方針を受けてその対策にあたり、衛生委員の選出を行うようになった。衛生委員は、住民とじかに接することで感染症対策に従事する健康のための第一線の行政機関であった。
 蘭学などの影響により江戸時代には一部西洋の医術の紹介や実践が進められていたが、明治の世になると西洋医術を基本とした医療・衛生への取り組みが採用されるようになる。そこで、明治四年(一八七一)の岩倉遣外使節団に随行が決まった長与専斎(ながよせんさい)(一八三八~一九〇二)に期待された活動は、西洋医学の制度や教育の仕組みを調査・考究することであった。
 明治四年一一月に横浜から出港した岩倉具視ら一行は、約一か月の航海を経てアメリカ合衆国に入国する。長与は合衆国の都市計画や技術を目の当たりにすると、驚きと感動を禁じ得なかった。岩倉たちは幕末に締結を余儀なくされた不平等条約の改正の実現を目指していたが、西洋の外交儀礼に不案内であったことから、急遽、大久保利通と伊藤博文が一旦帰国せざるを得なくなる。これに対して長与は日本出国当初より調査対象の本丸をベルリンと定めていたことから、一足先に欧州に向かい、ロンドン、パリを経て一人鉄道にて国境を越え、ベルリンへと入った。ベルリンでは長与が長崎遊学時代親交を深めた青木周蔵や、青木と同じ長州藩出身の品川弥次郎など気の置けない同胞に出迎えられ、ビール片手に今後の活動への意気込みを再確認した。長与はこのときの模様を「洋行以来の愉快なりき」(小川・酒井校注 一九八〇)と書きとどめた。
 西洋の医学教育制度を中心に調査を進めるなかで長与は、日本でのちに「衛生行政」と表現されるGesundheitspflegeやSanitätswesenといった言葉に注目するようになる。当初は理解に苦しんだが次第にこれらの言葉によって示される事柄が、特殊の行政組織を伴って、地方行政と警察行政が連携しながら住民の健康を保護するための活動である、と理解した。長与にしてこの健康保護のための取り組みは、創新の事業であった。西洋をモデルに国家の建設を進める明治期の日本にあって、ドイツなど日本がモデルとする国にこの仕組みが存在するも日本にはなかったことから、帰国後はこの事業の立ち上げを自身の畢生(ひっせい)の事業として位置付けた。
 帰国した長与は医学教育事務を所管するべく設置されていた文部省医務局の局長に就任すると近代医療・衛生制度の濫觴(らんしょう)とのちに評されることとなる医制の制定を実現する。この医制では、医師や薬舗の養成や住民の健康保護を実現するための基本方針が示されていた。このとき長与は、西洋の地で見出した住民の健康保護事業を「衛生」と命名した。当初は健康や保健といった言葉を思い巡らしたようであるが、「字面高雅にして呼声もあしからず」(小川・酒井校注 一九八〇)と言って気に入り、この名称を採用した。
 医制が制定された翌年、医学教育事務は文部省の所管とされたが、健康保護事業は内務省が所管することとなり、長与も内務官僚としてこの事業の陣頭指揮を取ることとなった。健康保護事業を「衛生」とした長与は、当該事務を所管する部局の名称を「衛生局」とする。その結果長与は、初代内務省衛生局長となり、以後明治二四年にこの職務から解放されるまで実におよそ一六年間にわたり近代日本の衛生行政の陣頭指揮を取ることとなった。
 長与が衛生行政の仕組みを立ち上げようとした矢先の明治一〇年以降、人々を襲ったのがコレラの大流行であった。コレラは幕末にも被害を出したが、明治期以降に注目するとこの明治一〇年のものが初出となる。また、コレラはのちにコレラ菌によって引き起こされる感染症であることが知られるが、明治初期にはコレラ患者発生のメカニズムへの理解が及ばず、人々は大混乱し、図1-5-1-1のように「虎」、「狼」、「狸」を合わせて「コロリ」とする架空の動物を描き出し、これの恐ろしさと消毒の励行が促された。明治一二年や一九年には一〇万人以上の人命が鬼籍へと追いやられる(表1-5-1-1)。明治期はまさにコレラとの戦いに明け暮れたともいえる。
 明治一〇年に続き明治一二年にもコレラの流行に見舞われた明治政府は、衛生行政のための制度を整え始める。明治一〇年のコレラ予防の経験もこのときは参考とされた。人類にとってつくづく歴史や経験が重要な役割を演ずることがこのコレラ対策の過程を見てもよく理解できる。
 明治一二年七月、コレラが流行するなか、内外の医師を集めて政府に諮問するべく中央衛生会が設置される。長与は人々の健康は医学等学術を「政務的に運用」することで達成されるとした。そこでこの中央衛生会は、医学等学術と政策を繋ぐための媒介機関となることが期待された。
 

図1-5-1-1 「虎列剌退治」 木村竹次郎 明治19年(1886)8月17日

東京都公文書館所蔵 資料番号:000373013

表1-5-1-1 明治期の感染症による死者数(単位:人)

内務省編『衛生局年報』(1876~1937)をもとに作成した表(厚生省医務局編『医制百年史』資料編〈ぎょうせい、1976〉)をもとに作成