「官」と「民」の協調に向けた取り組み

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 政府が責任を負う感染症対策は明治期より始められる。明治政府は内務省を中心として衛生行政の形成を進めるが、そのなかで課題とされたのが政府の活動への住民の理解と協力であった。住民は政府の方針を十分に理解することができなかったことから、その生活を震撼させたコレラの流行に際して患者を隠蔽するといった行動に出ていた。感染症対策の陣頭指揮を執る初代内務省衛生局長の長与専斎はこうした住民の選択を課題として、政府と住民、すなわち「官」と「民」とが協調できるような仕組みを模索し始める。その結果設立されたのが大日本私立衛生会であり、衛生会など各地で設立されたその「支会」であった。
 明治初期のコレラの流行を受けて、内務省では中央衛生会および地方衛生会からなる諮問機関を設置し、また府県には衛生課、町村には衛生委員を設置、さらに明治一三年(一八八〇)には伝染病予防規則の制定を実現し、感染症対策の重要性と政府の取り組みを示した。これらの一連の取り組みは、長与の主導するところであった。長与は、住民の健康の実現を行政上の課題とし、医学等学術を「政務的に運用」してこれに取り組む姿勢を示した。そのため中央衛生会と地方衛生会には、医学等学術上の知見と政策とを媒介することが期待され、ここで示された方針を住民にまで届けることができるよう、府県衛生課や町村衛生委員に見える指揮命令系統の体系すなわちライン系の組織を活用することを予定したのであった。しかしその一方で、健康は住民自身が望むものであるという側面も無視できなかった。いくら行政が精緻な制度や機関を整備しようとも、住民がこの必要性を理解し、協力することなくして、この衛生行政の効果を高めることは困難であったからである。明治初期の内務省衛生行政を進めるにあたり長与は、サプライサイド、すなわち政府や行政の側の視点からのみ住民の「健康保護」の実現を図ろうとしていたわけではなかったのであり、ディマンドサイド、すなわち政府の政策を受容する住民の側にも感染症の流行など衛生問題への対応を求めていたのであった。そのため長与は、政府の進める健康増進事業に理解のある後藤新平(一八五七~一九二九)や高木兼寛などと図り、「官」と「民」の協調を実現するための仕組みづくりを始めた。この結果設立されたのが大日本私立衛生会であった。
 明治一六年に第一回総会を開催した同会は、「私立」とされているが、その設立の実現に向けて尽力したのは、長与同様、内務省の衛生官僚や陸海軍の軍医、あるいは東京大学医学部教授など政府の側にある面々であった。これに市井の医師をはじめ衛生や健康に関心のある者を会員として定期的に講演会などを開催し、行政と住民とが感染症予防などに関心を深めることが企図されたのである。
 図1-5-2-1に見えるように同会の初代会頭は、日本に赤十字活動を紹介したことで知られる佐野常民、副会頭には長与専斎、そして幹事は高木兼寛、長谷川泰、後藤新平、石黒忠悳、松山棟庵、白根専一、太田実、永井久一郎、三宅秀、田代基徳であった。高木は中央衛生会の会員として活躍し、慶應義塾を始めた福澤諭吉の高弟である松山や適塾の出身で長与とは同窓であった田代とも近代日本の医学の進展に与かっていた。長谷川、後藤、石黒、三宅は長与同様、近代日本における西洋医学の普及や人々の健康増進のための活動に貢献していた。永井、白根、太田は内務省の事務官として参加していたが、永井、白根は、松山同様、慶應義塾での学びの経験をもっていた。こうしてみてくると、大日本私立衛生会設立発起人のメンバーは、適塾や蘭学、西洋医学あるいは内務省などを通じて、どこかで長与と関わりをもっていた。また、松山や永井、白根のように、慶應義塾に関係のある者が目立つのも特徴といえるかもしれない。長与は、福澤とは適塾の同窓であり、以後、終生にわたりお互い深い信頼関係で結ばれていた。
 長与は住民の健康を実現するためには、「各自衛生」と「公衆衛生」が求められるとする。前者は住民自身が自らの健康に留意することであり、江戸時代から唱えられてきた「養生」との関係が深い。ここでは住民は、早寝早起きを心掛け、暴飲暴食は避けねばならないといった行いが求められる。長与はこの「各自衛生」が認められるときには「公衆衛生」は必要はなくなるとした。しかし産業と人口の集住形態が変化し、都市化現象が認められるようになるともはや「各自衛生」の守備範囲を超え、行政が住民の健康に介入する契機を認めざるを得なくなり、「公衆衛生」がここに俄然、注目を浴びるようになるのであった。
 長与の立場からすると「公衆衛生」は「政府ノ法律」となって現れた。しかし法律は万能ではなく、住民はひとたび「自由」が制限されるようなこととなれば、「政府ノ法律」に抵触することを避けようとする。長与はこと「公衆衛生」に関しては、住民が単に法律に違反しないように配慮すればこの目的を達成することができるということはなく、何よりも住民自身が無病長命を願わなければこの政府の試みは頓挫すると考えた。そこでこの自身の思いを基に大日本私立衛生会を立ち上げ、各地には「支会」を設け、これに「各其地ノ衛生上ノ利害ヲ担任」(長与 一八八三)させ、互いに「諮詢研究」し、「健康保護」の実現を目指したのである。
 

図1-5-2-1 大日本私立衛生会創設時の役員
小島和貴『長与専斎:1838-1902(長崎偉人伝)』(長崎文献社、2019)をもとに作成