明治零年代の近代的警察制度導入

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 本項では、明治初期に端を発する近代日本警察の歴史的展開と、港区域における治安維持機構の関連について述べる。明治維新直後の東京では、江戸時代以来の治安維持機構や地域社会システムの動揺・崩壊により治安悪化が著しかった。欧米発祥の概念である「警察」がわが国に伝来して間もないこの時期の治安維持の担い手は、各藩から徴集された藩兵から、明治四年(一八七一)の廃藩置県後は東京府兵へ、さらに開港地・横浜に続いて東京にも配備されることになった邏卒(らそつ)=ポリスへと目まぐるしく変転する。翌五年司法省に設置された警保寮(のちの内務省警保局)が全国警察組織を統一して管轄することになり、東京府下の邏卒もその指揮下に組み込まれた。
 近代的警察制度の導入には、明治政府の依頼で諸外国の警察文献を翻訳、紹介した福澤諭吉が貢献した。また、東京府大属として邏卒設置に従事した川路利良(かわじとしよし)は、ヨーロッパ警察調査によってフランス警察を模範とする近代的警察の導入をもたらした。司法省警保助兼大警視となった川路は、明治五年に江藤新平遣欧使節団の随員として渡欧してフランスなど欧州各国の警察制度を調査し、帰国後の意見書により軍隊・警察の混同状態から脱却した近代的警察制度の確立を主張した。この建議により、明治六年に内務省が民部省より分離新設され、司法省から警察事務を司る警保寮が移管された。これにより内務省が全国警察組織を統括することとなり、翌七年、パリ警視庁に範をとった東京警視庁が設置され、従来の邏卒は巡査と改称された。
 大久保利通内務卿を中心とする「大久保政権」下で、内務省による全国警察機構の中央集権化と画一化が進められる。発足当初の内務省は勧業寮、警保寮を中心に殖産行政、警察行政を所管し、また地方官たる府知事・県令の人事権を握るなど地方行政においても強力な権限を有し「大久保政権」を支える存在であった。不平士族による反乱の続発など動揺する治安状況にあって、のちの警察署の前身となる警察出張所、巡査屯所などが設置され、また現在の「交番」の原型となる「交番所」も設けられた。明治七年に東京警視庁管内に初めて設けられた「交番所」は巡査が交差点など特定の場所に出向いて交替で立番をするものであったが、これはその後、明治一四年に常設の建物を備えた「派出所」と改称される。一方、東京府を除く各府県については明治八年の「行政警察規則」により、全国的に行政警察機構の確立が図られ各府県の警察機構が漸次画一化された(府県庁への警察事務を管掌する課の設置、「巡査」への名称統一など)。また巡査による住民生活の日常的把握、情報収集のための「戸口調査」などが実施されるようになった。