江戸時代初期、江戸には武士階級で構成された公的消防組織(定火消(じょうびけし)など)しか存在せず、それも武家の家屋の消火が目的で民家の消火は対象外であった。しかし、いくら公的消防組織で防火体制を強化しようとも民家からの延焼を防がねば、江戸城や武家の家屋も火災から守れないことが徐々に社会的にも認識されるようになった。だが幕府の保有する武士階級の人的資源だけでは、江戸全域の防火は不可能であった。そこで八代将軍徳川吉宗が享保四年(一七一九)に組織させたのが、住民(町人)の義勇消防組織である「店火消(たなびけし)」(町火消)であった。それを南町奉行大岡越前守忠相が編成替えして、町火消「いろは四十八組」および、隅田川以東の「本所、深川十六組」が誕生した。そして武士の公的消防組織も、民間の家屋の火災を消火するようになった。定火消は公的消防組織、町火消は義勇消防組織のそれぞれ元祖といわれる。
これら公的消防組織と義勇消防組織の二重の防火体制の整備は、当初江戸に限定された取り組みであった。当時、江戸は世界でも有数の大都市で、都市型の防火体制の整備が早急に求められていた。また幕藩体制のもとでは地域内の防火は各藩に任されており、幕府は江戸の消防体制の整備のみ考えれば良かった。全国的な消防体制の整備という発想もそれを行う制度的義務も、幕府にはなかったのである。しかし江戸以外の地域においても、各藩によって城下町には江戸に倣(なら)った武士階級による消防組織や火消組織(町人階級により編成された義勇消防組織)が、農村部には名主、五人組を中心とした駈付(かけつ)け農民による臨時火消の制(農民階級により編成された義勇消防組織)が整備されていた。
図1-5-4-1 月岡芳年筆「ま」組火消し絵馬(明治12年〈1879〉)
赤坂氷川神社所蔵