港区域内の消防体制

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 港区域内における消防体制の整備としては、義勇消防体制は明治六年(一八七三)に消防組を六大区三九組編成としたときに、第二大区(明治一一年の郡区町村編制法以降の芝、麻布区域)および第三大区の一部(同様に、東京一五区体制下での赤坂区)の消防組の管轄となった。また公的消防体制(官設消防)としては、明治一三年に内務省警視局のもとに設置された消防本部を翌一四年に消防本署と改編し警視庁に移管し、六消防分署(消防署の前身)を置くこととなったが、ほぼ消防組の大区に相当するかたちで第二分署、第三分署が設置された。
 このように近代的な消防体制が整備されたのちも、明治初期の東京においては大火や中規模な火災が多発した。これは都市計画上の防火体制や、消防水利の整備が追いつかなかったことが原因である。港区域内においても、明治二年一二月二八日の午後一時頃に、京橋元数寄屋町(現在の中央区銀座五丁目)の米屋のかまどの不始末から出火し、現在の銀座四丁目付近から新橋、汐留まで延焼し、全焼三四〇二戸、二二人の死亡者を出した元数寄屋町の大火や、明治一七年一月一七日の深夜三時頃に雪が降る中、芝区三田二丁目(現在の三田二丁目)の湯屋の物置より出火し付近二九四戸を焼失した火災などが発生した(東京市編 一九一七および『読売新聞』明治一七年一月一九日付)。(永田尚三)