慶応四年(一八六八)三月二六日、新政府軍の兵が増上寺の山内に宿陣した。翌四月一一日の江戸城無血開城を経て、一六日には、東征大総督の有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が増上寺に入る。五月二〇日、増上寺が大総督府の求めに応じ、五〇〇〇両を貸し付けた。一〇月一三日には、明治天皇が増上寺に立ち寄ったことを受けて、護国殿での読経を命じられる。そのためか、増上寺は勅願によって国家鎮護などを祈願する「勅願所(ちょくがんじょ)」に指定された。
荒廃した寛永寺を思えば、増上寺は新政府軍に恭順せざるを得なかったのである。仏教史学者の藤本了泰(一八九二~一九四五)は、当時の増上寺について、こう述べている。
徳川一門の恩顧によりて殷盛を極めた増上寺が、上野寛永寺の運命と等うすべき状態を見ねばならないかも知れないと云ふ予感は、一山の僧侶をして恐怖せしめ胴乱せしめたに相違ない(藤本 二〇〇一)。
他方で、増上寺なりの動きもあった。寛永寺での戦いから四日後の五月一九日、旧幕軍として戦った彰義隊の遺体収容・埋葬を大総督府に申し入れたのである。『大日本維新史料稿本』には、「之を聴す」とあることから、この申し入れは許可されたものと思われる。実際に遺体が増上寺に収容・埋葬されたかは不明であるものの、増上寺としては徳川家への感謝をできる限り示そうとしたのであろう。
戊辰戦争と相前後して、明治政府は江戸幕府が行っていた宗教政策を一変させる。天皇を中心に国民の精神的統合を図るため、さまざまな行政措置を講じたのである。まず、慶応四年三月一七日、別当・社僧と呼ばれた全国神社の僧侶に、還俗(げんぞく)(出家した者がふたたび俗人に戻ること)を命じた。三月二八日には、神名(神号)に権現などの仏教的用語を使用しないこと、仏像を神体としないことなどを布告した。明治政府としては、古代以来の神仏習合を禁止し、神社から仏教的要素を排除することを目指したのである。一連の法令は、「神仏分離令」と総称される。
明治政府の意図は、あくまで神道から仏教色をとり除き、神仏を判然とさせるところにあった。しかし、国学者や神道家たちのなかには、これまで仏教勢力に押されていたこともあり、仏教寺院の弾圧をもくろむ者もいた。その結果、仏像や伽藍(がらん)などが破壊される廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が全国で相次いだのである。廃仏毀釈の被害状況には未解明な点もあるが、全国の寺院の半数近くが廃寺になったとも言われている。
港区域の廃仏毀釈の状況は、どうだったのだろうか。西応寺(芝二丁目)の廃仏毀釈被害は、「社殿ヲ破却シ、神体者他ニ移し候哉に聞及候(中略)僧徒之残暴可悪事ニ御座候」とされる(山本 二〇〇一)。当時、神仏習合の思想から、多くの神社では、付属の寺院である神宮寺・別当寺が営まれていた。しかし、廃仏毀釈の影響により、これらは相次いで廃絶となったのである。明治八年(一八七五)には、阿弥陀寺(南麻布五丁目)が、廃仏のために行き場を失った仏像を集めて開創し、同一一年に公許された。他方で、増上寺の被害は、「差程の重大問題でもない」と指摘される(藤本 二〇〇一)。泉岳寺(高輪二丁目)も一時的には荒廃したものの、住職の踏ん張りもあり、本堂を修復させた。このように、港区域全体では、極端な廃仏毀釈被害がほとんどなかったとみられている。
港区域の寺院では、廃仏毀釈よりも寺院自体の荒廃が課題となった。増上寺の総大衆(だいしゅ)(僧侶)数は、明治四年四月時点の二九二一名から、翌五年四月には二六二八名と約一割減ってしまった。善福寺(元麻布一丁目)は、幕府が瓦解したことにより多額の負債を抱えたほか、本願寺からの援助が打ち止められた。
さて、苦境に立たされた仏教側は、明治政府の宗教政策に歩み寄る。明治政府もまた、国民教化を推進すべく、仏教勢力の助力を求めた。明治五年三月、明治政府は宗教行政全般を所管する機関として教部省を新設し、国民教化にあたらせるために教導職を置いた。教導職は、無給で、敬神愛国・天理人道・皇室崇拝から成る「三条教則」を国民に説くことが期待されたのである。
教部省は、仏教側の教導職育成のために「大教院」の設立を企図する。一方の仏教各宗も、大教院の設立を建議した。かくして明治六年一月、麴町の元紀州藩邸で開院した大教院は、翌月に増上寺へ移転となった。こうして大教院は、神仏合同の布教機関となったのである。以下、増上寺と大教院との関係に言及していこう。
大教院の運営は、仏教側の意に反して教部省が主導することとなった。増上寺では、三門楼上の羅漢像が撤去され、木造の大鳥居が建設された。さらに、増上寺の抵抗もむなしく本堂は教部省に献納された。天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神という四神を祀る神殿が設置され、明治六年六月三日に神殿上棟式が催された。
教部省出仕の常世長胤(とこよながたね)は、上棟式の様子を複雑な思いをもって、こう書き残している。増上寺の本堂が教部省に献納されたことは、「時ノ勢ヒトシテ止事ヲ得ザル時ナレバ」賛成した。しかしながら、増上寺末派の僧侶たちのなかには、「本堂ヲ献備スル事ヲ不可トシテ嘆キ悲ム人」が多かったという。さらに、「教部ノ勢ヲ以テ献備セシメタレバ、常ニ僧侶ノ惜ク思フ念慮ハ絶ル時ナカルベシ」であった(「神教組織物語 中之巻」)。
かくして増上寺は、神殿を祀る礼拝機関となったのである。他方で、明治政府にとっては、徳川家の菩提寺であった増上寺を実質的に掌中に収めることで、江戸幕府からの政権交代を、広く全国にアピールする機会ともなった。
しかし、増上寺の神仏混淆(こんこう)の状態が、一つの悲劇を招く。明治七年一月一日未明、増上寺の本堂が火災にあったのである。大講堂、神殿、鐘楼や書籍諸記録が焼失した。
火災の原因は、放火であった。逮捕者は、高知県士族宮崎岬、同千屋孝郷、新潟県士族戸田九思郎の三名である。主犯格の宮崎は、放火の理由として寺院に神殿が置かれていること、徳川家の菩提寺に大教院の神殿を設け、「敬神愛国の趣意に相悖り却て神威を汚し」たこと、などを挙げている(「警視庁録事」)。また、千屋は、大教院が「神仏混淆して敬神愛国の教憲更に不相立」と考え、放火に及んだと供述した(「警視庁録事」)。実行犯でなかった戸田も、「人民を惑し敬神愛国の妨害」となっている昨今の仏教寺院の状況に不満を漏らした(「警視庁録事」)。
明治八年九月二八日に提出された宮崎の供述書には、犯行の動機が以下のように綴られている。天照大神を祀る大教院が「不潔の仏寺」であることに対し、千屋と「深く慷慨」した。大教院の門前を通ったとき、「不潔の大教院ハ寧ろ焼滅」すべきであると考え、「観音堂本堂の縁の下」に火を放ったという(「公判」)。
放火の際、宿直者の機転により、延焼を免れた神殿の霊代(たましろ)は、近隣の芝大神宮(芝大門一丁目)に遷座された。教部省は、火災による教化活動の停滞を恐れた。そこで、明治七年一月六日には、霊代を芝大神宮よりふたたび増上寺に遷座した上で祭典を催し、祭神の安泰を示したのである。また、焼け落ちた増上寺の神殿の再建計画は、放火の翌月である二月の時点ですでに練られ、資金の目処もつけられた。
その中心は、仏教側ではなく神道側であった。当時の大教院内では、少数派の神道側が仏教側に押されていた。神道側は、仏教側への対抗を企図し、迅速に祭典を開催するとともに、神殿の再建を主導したのである。
他方で、仏教側、とりわけ増上寺にとって、放火は大打撃であった。焼失した旧本堂(大殿)は、「天下ノ財力ヲ傾ケテ経営シタル稀世ノ大殿」と称されるほどのものであった(『日新真事誌』明治八年一月四日付)。この再建は、時間も費用も多大となり、難航した。有志の献金額は、二年間で約三二〇円に過ぎなかった。教部省から大教院に寄せられた献金が約一五〇〇円であったことと比較すると、増上寺の苦境が鮮明となろう。『大本山増上寺史』にも、大殿の再建について、「急を要する問題で其資金捻出には大苦心が払われ」たと記されている。
明治八年一一月、増上寺は、浄土宗寺院の協力を仰ぎつつ、大殿再建の献金を全国の親教に懇願した。明治一二年一二月、現在の静岡県静岡市にある宝台院の本堂を増上寺へ移築・増築することとなった。総額三万四〇〇〇円という一大事業であった。しかし、明治一八年には、予算超過と資金不足により、工事は中止される。その後、徳川家の援助などもあり、ようやく明治三六年に大殿が落成した。焼失から、約三〇年後のことである。
明治維新後、苦境に立たされた仏教勢力。彼らは、生き残りをかけて明治政府に歩み寄った。しかし、その中心たる増上寺は、神仏混淆の状態が敬神愛国に背くという、廃仏毀釈に連なる理由で放火にあったのである。また、この放火を契機に、大教院での仏教勢力は衰退した。大殿の再建の困難さは、その証左であると言えよう。先に述べたように、これまで、港区域の廃仏毀釈被害に極端なものはみられなかったとされてきたが、見方を変えれば、増上寺の放火は廃仏毀釈の象徴的な事件でもあった。
なお、大教院による国民教化は、十分に機能しなかった。そもそも、教導職が説くことを期待された三条教則は、神道的な内容であることから、僧侶たちに馴染みが薄かった。また、西本願寺の島地黙雷(しまじもくらい)などが信教の自由・政教分離に反するとして、大教院での神道との合同布教に反対した。結局、明治八年四月、大教院は解散となった。
本項の最後に、港区域における寺院数を整理しておこう。明治一五年時点の数字をまとめたものが表1-6-1-1である。
芝区内には曹洞宗の寺院数が三五に上る。これは、東京市一五区で最多であった。また、表1-6-1-1に掲げた仏教の主な宗派の寺院を網羅しているのは、港区域の三区を除けば、わずかに小石川、深川の二区のみであった。 (久保田哲)
図1-6-1-1 増上寺中門(明治初期の左右廊遠景)
東京都江戸東京博物館所蔵
表1-6-1-1 明治15年(1882)における港区域の主な宗派の寺院数
注)宗派の順は、東京府『東京府統計書 明治15年』(1884)に掲載されているとおり。
東京府『東京府統計書 明治15年』(1884)をもとに作成